第三十三ノ二話:武と知の交錯
第三十三ノ二話:武と知の交錯
「ほう、左翼から来たか! 愚直な奴らめ!」
高順隊の、鉄塊のような猛攻を見て、黒沙は玉座の上でせせら笑った。彼は、この単純な力押しを真正面から受け止めるべく、予備兵力を惜しげもなく左翼へと投入する。
「押し返せ! 并州の盾とやら、ここで砕いてくれるわ!」
黒沙軍の兵士たちが、鬨の声を上げて高順隊に殺到する。盾と盾がぶつかり合う鈍い音、肉を断つ甲高い金属音、そして兵士たちの断末魔の叫びが、戦場の一角を支配した。
敵の陣形が、単福の読み通り、じりじりと、しかし確実に左側へと引き伸ばされていく。
中央で、呂布は逸る気持ちを、必-死で抑え込んでいた。
早く行きたい。早く、あの黒沙の首を、この戟で貫きたい。
目の前で、高順の兵たちが、血を流し、倒れていく。その光景が、彼の心を焦げ付-かせる。今、俺が飛び出せば、奴らを助けられるのではないか。
(…いや、動くな)
だが、その衝動を、呂布は理性の鎖で縛り付けた。
(信じろ…あの書生を…)
後方にいる、まだ顔もよく知らぬ若者の知恵を、今は信じる。それは、彼にとって、戟を振るうよりも遥かに難しい、新たな戦い方であった。彼は、己の闘争本能という、最大の敵と戦っていた。
その頃、戦場を大きく迂回した張遼の騎馬隊は、砂塵に紛れ、息を殺して丘の陰に潜んでいた。眼下には、完全に無防備な敵の右翼が広がっている。
(まだだ…まだ、その時ではない…)
張遼は、逸る部下たちを手で制しながら、正面戦場の音に、狼のように耳を澄ませていた。あの書生の策。もし、あれが図に当たれば…想像するだけで、武者震いがした。
後方の本陣では、単福が、眉一つ動かさずに戦況を見つめていた。
彼の脳裏では、無数の算段が、恐ろしいほどの速度で繰り返されている。
(高順隊の損耗率、予測の範囲内。黒沙が予備兵力を投入。これも読み通り。敵陣の重心が、完全に左へ傾いた。本陣は、がら空きだ…)
彼の目は、盤上の駒の動きだけを見ていた。だが、その指先は、緊張のあまり、白く変色していた。
(狼煙はまだか…! 張遼将軍、頼む…!黒沙が勝利を確信する、まさにその瞬間に、地獄を見せてやるのだ!)
戦況は、動いた。
「将軍! 高順様の部隊が、押されております!」
呂布のすぐそばで、伝令が悲痛な声を上げる。見れば、高順の鉄壁の方陣が、敵の波状攻撃の前に、少しずつ、しかし確実に後退を始めていた。
(…もう限界か…!)
呂布の堪忍袋の緒が、ぷつりと切れた。
(書生め! 貴様の策のせいで、また俺は仲間を失うのか!)
彼が、自ら突撃の号令を発しようと、方天画戟を振り上げた、まさにその時。
―――ヒュウウウウッ! ドンッ!
まるで天啓のように、戦場の遥か後方、呂布軍が進んできた道の方向から、一本の狼煙が、高く、高く空へと打ち上がった。
張遼隊、勝利の合図である。
「な、なんだ!? あの狼煙は!?」
黒沙軍の本陣が、にわかに騒がしくなる。別働隊からの合図ではない。あれは、敵の狼煙だ。
「まさか…別働隊が、やられたというのか!?」
「将軍! いま!」
後方の本陣から、単福の指示を告げる、勝利を確信した旗が、高く、高く掲げられた。
(…見事だ、書生…!)
呂布の口元に、獰猛な、しかしどこか満足げな笑みが浮かんだ。
(そして、よくぞ耐えた、高順! 約束通り、最高の舞台を用意してくれたな、張遼!)
「うおおおおおおおおおおっ!」
その旗を待っていた。
呂布は、腹の底から、溜めに溜めた闘気を一気に解放した。その咆哮は、戦場の全ての音を掻き消し、敵味方の魂を震わせる。
神馬・赤兎が、主の意思に応え、大地を蹴った。
その狙いはただ一点。
別働隊の敗北という、予期せぬ報せに動揺し、予備兵力も使い果たして完全に孤立した、黒沙の本隊!
単福の知略によって完璧に整えられた舞台の上で、ついに最強の矛が解き放たれる。
呂布の瞳には、味方の敗北を信じられず、「馬鹿な!」と驚愕に歪む宿敵・黒沙の顔が、はっきりと映っていた。
因縁の対決、その決着の時が、目前に迫っていた。