幕間:知者の戦場
幕間:知者の戦場
并州軍が、新たな陣形へと動き出す。その地響きを、後方の本陣で聞きながら、単福は、遠眼鏡から一瞬だけ目を離し、短く、深く息を吸った。
冷たい秋風が、彼の火照った頬を撫でる。
(始まった…)
彼の頭脳は、かつてないほど冴え渡り、研ぎ澄まされていた。
目の前の現実の戦場が、彼の頭の中では、無数の線と点で構成された、巨大な兵棋盤へと変わる。
一つ一つの駒(部隊)の動き、その速さ、兵士たちの士気、風向き、地勢…。それら全ての変数が、彼の脳内で瞬時に算定され、未来を見通していく。
(黒沙の狙いは、鉄床戦術。我らをこの谷間で挟み撃ちにする。ならば、こちらもその盤に乗るまで)
(敵の狙いが「挟撃」である以上、その挟撃が完成する前に、片方の腕を叩き折れば良い。そのための「鉄槌」が張遼将軍の騎馬隊だ)
(だが、そのためには時間が必要。その時間を稼ぐための「金床」が高順将軍の陥陣営。あの部隊は、まさに鉄壁。敵の猛攻を耐え抜き、陣形をこちらへ引きつけてくれる)
全ては、盤上の駒。
だが、その駒は、血の通った人間だ。一つ読みを間違えれば、その全てが崩れ去る。
(怖いか…?)
自らの心に問いかける。答えは、否。
恐怖ではない。これは、武者震いだ。
追われる身となり、ただ書物の中に逃げ込んでいた自分が、今、この天下の趨勢を左右するやもしれぬ、壮大な盤面を動かしている。
そして、この策の成否を分ける、最後の、そして最強の駒。
彼の視線は、盤面の中央で、どっしりと動かずに敵本陣を睨みつける、呂布奉先へと注がれた。
誰が見ても、主力を二つに分けている今、呂布の手勢は薄い。だが、黒沙は決して前に出てこない。
なぜなら、相手が、あの呂布奉先だからだ。
(黒沙にとって、殿は恐怖の象徴。あの人がそこにいるだけで、敵は「いつ突撃してくるか分からない」という見えざる重圧に縛られ、動けなくなる)
これこそが、単福の策の真髄であった。
呂布の武を、ただ敵を薙ぎ払うための「破壊の力」としてではなく、敵の動きを封じ、戦場の時を支配するための「軍略上の要石」として盤面に配置する。
それは、呂布の武を駒として扱う不敬な発想ではない。
むしろ、彼の武勇への絶対的な信頼があるからこそ成り立つ、究極の「制御」だったのだ。彼の存在そのものが、この戦局を支える巨大な柱となっている。
(殿…どうか、今しばらくのご辛抱を…)
単福の胸に、呂布への、畏敬と、そして計り知れないほどの感謝の念が込み上げてきた。
あの人は、罪人である自分に、この并州軍の命運を託してくれた。その器の大きさに、応えねばならない。
ふと、彼の脳裏に、亜麻色の髪を結い上げた、凛とした少女の姿が浮かんだ。
(暁姫様…)
『信じております』
彼女がそっと届けてくれた、あの短い書きつけが、今、彼の懐で、確かな熱を持っているようだった。
あの曇りのない瞳が、自分の知略を信じてくれた。罪人である自分の過去ではなく、「単福」という人間の、未来を信じてくれた。
(この知略は、もはや某一人のものではない)
彼は、再び遠眼鏡を覗き込み、敵陣へと突き進む高順隊の、力強い前進を見据えた。
(師の教え、姫君の信頼、そして今、この策を信じ、死線を彷徨おうとしている兵たちの命。その全てが、この双肩にかかっておるのだ)
(だからこそ、負けられぬ。この初陣、必ずや、完璧な勝利で飾ってみせる…!)
決意を固めた彼の瞳には、もはや罪人の憂いの影はなく、一人の知者として、そして、信じてくれた人のために戦う一人の男としての、静かで、しかし揺るぎない炎が燃え盛っていた。
彼の戦いは、今、この瞬間に始まったのだ。