第三十二ノ二話:獣、再び
第三十二ノ二話:獣、再び
張遼たちが、谷の入り口に馬を進めた、まさにその瞬間だった。
それまでの静寂が、まるで嘘のように破られた。
ヒュウッ、という空気を切り裂く音と共に、崖の上から、無数の矢が、黒い雨となって降り注いだ!
「うおっ! 伏兵だ!」
張遼たちは、間一髪で馬首を返し、矢の範囲から逃れる。その顔には、驚愕の色が浮かんでいた。
「将軍! 単福殿の申される通り、谷の両側に多数の伏兵が! 道には、巧妙に隠された落とし穴も確認いたしました!」
張遼が、興奮と、そして畏敬の念が入り混じった声で報告する。
呂布軍の兵士たちの間に、どよめきが走った。あの最後尾にいた書生が、我らの命を救ったのだ、と。
罠を見破られたと悟った敵が、ついにその姿を現した。
谷の向こうから、あの禍々しい黒い軍団が、地鳴りのような鬨の声を上げて進み出てきた。
そして、その先頭には、熊のような巨躯に、蛇の刺青を刻んだ、見紛うことなきあの男の姿が。虎牢関で負わせた傷が、その顔に、醜い復讐の証となって刻まれている。
宿敵・黒沙であった。
黒沙は、呂布の姿を認めると、その傷跡を引きつらせ、獰猛な、そしてどこか楽しげな笑みを浮かべた。
「呂布ゥ! また会ったなァ! 虎牢関での借り、忘れちゃいねえだろうなァ!」
その声は、再会の喜びすら感じさせるほど、狂気に満ちていた。
呂布もまた、方天画戟を構え、その視線を真っ直ぐに受け止めた。彼の心は、驚くほど静かだった。かつてのような、ただ敵を屠るための高揚感ではない。守るべきものを背負う者としての、冷徹な闘志が、その全身に満ちていた。
「黒沙か。命拾いしたようだな。だが、貴様が弄ぶのは、もう終わりだ」
呂布の静かな物言いが、逆に黒沙の神経を逆撫でした。
「はっ! 随分と偉そうな口を利くようになったじゃねえか、并州の田舎武者が! 噂に聞いてるぜ。民のために土なんぞ耕しているそうだな! 牙の抜けた狼になり下がったか、呂布!」
黒沙は、鉄棍の先で自らの胸を叩きながら、嘲笑うように続けた。
「俺は違う! 俺は、あの後、さらに強くなった! 力こそが全て! 奪い、犯し、殺す! それが、この乱世の唯一の真理だ! 貴様のような、甘っちょろい『義』だの『民』だの、俺の力の前には、砂上の楼閣よ!」
黒沙の言葉に、呂布軍の兵士たちが色めき立つ。だが、呂布は動じない。彼は、むしろ、どこか憐れむような目で、黒沙を見返した。
「…獣が。貴様は、まだ何も分かっていない」
呂布の声は、静かだったが、その場にいる全ての者の耳に、はっきりと届いた。
「本当の強さとは、何かを奪う力ではない。何かを、誰かを、守り抜く力のことだ。その重みを知らぬ貴様の力など、所詮は、虚しいだけの破壊に過ぎん」
「黙れ!」黒沙が吼えた。「綺麗事を! ならば見せてみろ! 貴様のその守る力とやらで、この俺を止められるものか!」
「止めるのではない。終わらせるのだ」
呂布は、方天画戟の穂先を、静かに黒沙へと向けた。
「貴様のような獣が、これ以上、漢の地を、そして民を蹂躙することは、この俺が許さん」
もはや、言葉は不要だった。
二人の英雄の、決して交わることのない価値観が、戦場の冷たい空気の中で、激しく火花を散らす。
呂布は、後方にいるであろう、まだ顔もよく知らぬ軍師見習いのことを、一瞬だけ思った。
(あの書生…ただ者ではないな…)
だが、その思いは、目の前の宿敵を滅ぼすという、君主としての絶対的な使命感によって、すぐに掻き消されていった。
因縁の再戦の幕が、今、切って落とされようとしていた。
だが、その時、単福の元から、再び伝令が馬を飛ばしてきた。その顔には、先程とは比べ物にならないほどの、焦りと恐怖の色が浮かんでいる。
伝令は、呂布の耳元で、震える声で告げた。
「た、単福殿より、伝言にございます!『罠は、これだけではありませぬ! 敵の真の狙いは、殿をこの場に引きつけ、その隙に、別働隊が我らの背後を……!』」
背後。
その言葉に、呂布はハッとして振り返った。
背後には、この谷よりさらに狭く、一度入れば身動きの取れない、一本道が続いている。
そして、その道の先にあるのは――。
「晋陽……!」
まさか。
奴らの真の狙いは、俺の首ではない。
俺が守るべき、故郷そのものだというのか。
呂布の背筋を、かつてないほどの冷たい汗が、流れ落ちた。