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幕間:書生の戦場

幕間:書生の戦場

出陣を明日に控えた夜、晋陽城の書庫の一角では、まだ煌々と灯りが灯っていた。

単福は、眠ることも忘れ、膨大な量の木簡と地図の山に埋もれていた。


呂布将軍からの、条件付きの許し。

それは、信頼ではない。師である陳宮への信義によって与えられた、薄氷を踏むが如き機会。昼間の謁見で感じた、あの絶対的な武の化身からの拒絶の冷気は、まだ肌にまとわりついているかのようだ。

(このままでは、ただのお飾りに過ぎぬ。一度でもしくじれば、即座に斬り捨てられるだろう…)

戦場で、武勇を示すことのできない自分が、あの鬼神に認められるにはどうすればいいか。答えは一つしかなかった。


戦が始まる前に、戦を終わらせる。


彼の戦場は、馬上の檄や剣戟の中にはない。この、墨と竹簡の匂いが満ちる静寂の中にこそあった。敵は、長安に巣食う李傕・郭汜だけではない。行軍路に潜む不測の事態、兵士たちの疲労、そして、日に日に尽きていく兵糧。目に見えぬ、しかし確実に軍を蝕む全ての敵を、事前に叩き潰す。それが、彼にできる唯一の戦い方だった。


単福は、出立までの残された時間で、考えうる限りの「準備」を始めた。

まず、彼は遠征経路の詳細な地図と、并州から河東郡にかけての過去五年間の天候記録を照らし合わせた。いつ、どこで、どれほどの雨が降り、どの川が氾濫し、どの道がぬかるんだか。埃っぽい木簡の束を解き、一つ一つの記録を、常人離れした記憶力で頭に叩き込んでいく。

次に、兵糧を管理する主簿のもとへ頭を下げ、荷車一台の積載量、車軸の材質と耐久度、兵士一人当たりの平均的な兵糧消費量に関する帳簿や記録を借り受けた。主簿は、訝しげな顔をしたが、陳宮の弟子という立場がそれを可能にした。


夜が更け、城内が寝静まる中、単福の頭脳は目まぐるしく思考を巡らせていた。

指先を墨で汚しながら、彼はそれらの膨大な数字を、一枚の紙の上で組み合わせ、解きほぐし、算定していく。


「…これか」

彼の目に、一つの危険な可能性が浮かび上がった。

数日前、この地域には記録的な豪雨があった。地図と地理誌を照合すると、行軍路の途中にある山道は、特定の箇所で地盤が緩みやすい粘土質の土壌をしている。

彼は、荷車の重量と、雨水を含んだ路肩がどれほど持ち堪えられるかを、頭の中で算定した。

(…危うい。このままの積載量で通過すれば、半数以上の荷車が脱輪、あるいは立ち往生する可能性がある。そうなれば、行軍は止まり、長安への到着が遅れる)


それは、まだ起きていない未来。だが、彼の頭脳の中では、すでに現実に起こりうる危機として明確に像を結んでいた。

彼は、すぐさま対策を講じ始めた。

頭の中で、いくつもの盤面を思い描き、先を読む。

第一の選択肢、迂回。だが、地図に引かれた線は、到着までに二日以上の遅れを生むことを示していた。それでは、帝の身柄を確保するという、此度の遠征の最大の目的が果たせぬやもしれぬ。

第二の選択肢、架橋。これは論外だ。工兵隊を動かし、資材を運び込むには時間がかかりすぎる。


ならば、第三の選択肢。

彼は、再び数字と格闘する。荷車一台の重量、兵士一人が携帯できる限界の重さ、そして、行軍速度の低下を最小限に抑えられる積載量の最善の塩梅(あんばい)。散らばっていた駒が、一つの盤上に収まっていくように、彼の頭脳の中で、最適解が導き出された。


「…これだ」

その紙には、起こりうる難事、それに対する策、そして策がもたらす利が、簡潔に記されていた。

彼は、この書状を、旅支度の荷物の中にそっとしまった。

いつ、呂布将軍に試されるか分からない。その「いつか」のために、自分は常に答えを用意しておく。それが、非力な書生である自分の、唯一の戦い方だった。


(見ていてください、暁姫様)

彼の脳裏に、聡明な姫君の顔が浮かぶ。

(あなた様が信じてくださったこの知は、決して机上の空論では終わらせない)

彼女への想いが、彼の知略を、ただの冷たい計算ではなく、人々を守るための温かい力へと変えていた。


夜が明け、出陣の号令が響き渡った時、単福の瞳には、夜通しの作業による疲労の色はなかった。

そこには、自らの戦場を見つけ、全ての準備を終えた者だけが持つ、静かで、しかし鋼のような覚悟の光が宿っていた。

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