第三十一話:出陣の号令
第三十一話:出陣の号令
出陣の朝。
秋の澄んだ空気が、晋陽の城壁を凛と包んでいた。城門前には、選び抜かれた并州の精鋭五千が集結している。その軍容は、かつて反董卓連合に参加した頃の、荒々しいだけの集団ではない。民に見送られ、その瞳には故郷を守るという確かな意志を宿した、規律と士気に満ちた「君主の軍」としての風格が漂っていた。
軍の先頭で、呂布は赤兎に跨り、静かに出立の時を待っていた。
彼の前に、三人の娘たちが歩み寄る。
「父上」
長女の暁が、小さな薬包を差し出した。
「道中のご武運をお祈りしております。…ですが、決してご無理はなさいませんよう。父上には、もう、独りで全てを背負う必要はないのですから」
その言葉は、姉として父を案じる心と、軍師の卵として、主君の危うさを諫める理性が、見事に織り交ぜられていた。そして、彼女は、少し離れた場所で、緊張した面持ちで佇む単福に、小さな声で、しかしはっきりと聞こえるように言った。
「単福殿。父上を、よろしくお願いいたします」
その言葉には、父の身を案じる心と、目の前の青年への、揺るぎない信頼が込められていた。単福は、その想いの重さを受け止め、深く、そして力強く頷き返した。
「父上、どうかご無事で…」
三女の華が、手作りの小さな御守りを、父の大きな手に握らせる。その瞳には、父の無事を祈る切実な想いと、そして、遠い西涼の地にいるであろう、愛しい人の姿を重ねる、淡い光が宿っていた。
呂布は、その温もりを確かめるように、一度だけ強く握りしめ、力強く頷いた。
「父上がいない間、この并州は私が守る!安心して行ってきて!」
次女の飛燕が、愛用の槍を掲げ、勇ましく宣言する。だが、その声には、いつもの勝気さだけでなく、父と姉妹を守るという、領主の娘としての、新たな覚悟が滲んでいた。その姿に、呂布は思わず笑みを漏らした。
「ああ、頼んだぞ、我が将軍」
その言葉に、飛燕は誇らしげに胸を張った。
家族との別れを終え、呂布は全軍を見渡すと、その声を秋の空に響かせた。
「全軍、出陣!」
鬨の声と共に、并州軍は、一つの巨大な生き物のように、大地を揺るがしながら南へと向かう。
軍の先頭に立つ呂布。彼の瞳に宿る炎は、もはや個人的な武功を求めるものではなかった。
張譲の死を経て、民と共に土を耕し、彼は知ったのだ。戦が長引くことが、どれほど民を苦しめるかを。
(この戦は、俺が終わらせる。帝を救い、乱れた世を正す。それこそが、最も多くの民を救う、最短の道だ)
将としての、そして父としての炎が、静かに、しかし激しく燃えていた。
軍は進む。晋陽の城壁が、徐々に遠ざかっていく。
行軍が始まって半日ほど経った頃、先頭を行く呂布の元に、後方の荷駄隊から伝令が駆けつけた。
「申し上げます! この先の道が、先日の豪雨により一部崩落! 荷車が通行できるか、判断を仰ぎたく…!」
予期せぬ報告に、呂布の眉間に深い皺が刻まれた。
迂回すれば、大幅な時間のロスとなる。かといって、無理に進めば荷車の脱輪や兵糧の損失に繋がりかねない。
決断を迫られた呂布の脳裏に、ある男の顔が浮かんだ。