幕間ノ三:暁の誓い
幕間ノ三:暁の誓い
その夜、暁もまた、自室の窓辺に立ち、静かに夜空を見上げていた。
父・呂布が、ついに単福殿を遠征に加えることを許した。その事実に、彼女は安堵の息をつき、そして、自分のことのように胸を高鳴らせていた。
昼間、侍女に託した、あの『信じております』という短い書きつけ。
父が彼を認めるかどうか、まだ分からなかった。もし、このまま彼が并州を去ることになれば、自分は二度と、あの知的な魂と出会うことはないかもしれない。その恐怖が、彼女を衝き動かしたのだ。
あの言葉に込めたのは、姫としての「并州のために、あなたの知恵を信じています」という、公の想い。
そして、それだけではない。
「あなたの過去がどうであれ、民のために生きようとする、その今のあなたの心を、私は信じています」という、一人の人間としての想い。
さらに、その奥底には、まだ言葉にはできない、少女としての、切実な願いが込められていた。
(どうか…行かないで)
幸い、父は、陳宮先生の命がけの推薦を受け入れ、彼に最後の機会を与えてくれた。
だが、暁は知っていた。これは、父が単に娘の願いを聞き入れたのではないことを。
父は、自らが「矛」となりて中原を衝くために、并州を守る最強の「盾」として、陳宮先生をこの地に残すことを選んだ。そして、その矛の補佐役として、先生が命を賭して推薦する単福殿を、不本意ながらも認めざるを得なかった。
父と軍師。二人の偉大な男が、それぞれの覚悟と信頼の上で下した、苦渋の決断。
その重みを理解できるからこそ、暁は、父と陳宮先生への深い感謝と敬意を新たにしていた。
そして、思うのだ。
(心配だわ…)
あの人は、あまりにも聡明すぎる。だが、それ故に、不器用で、どこか危うい。父の、あの圧倒的な「武」の奔流の中で、彼の繊細な知性が、砕かれてしまいはしないだろうか。
その時、ふと、昼間の陳宮先生との会話が、脳裏に蘇った。
『姫君。単福は、確かに類まれな才を持っております。ですが、彼が真にその力を発揮するには、彼の知を理解し、その心を支える存在が不可欠です。…あるいは、それは、某のような師ではなく、姫君、あなた様のような方なのかもしれませぬな』
陳宮先生の、あの意味深な言葉。
その真意を悟った瞬間、暁の頬が、月明かりの下で、淡く、熱く染まった。
(私が…あの人を、支える…?)
それは、これまで考えたこともなかった、新しい道。
父の「武」を支える「知」となる。それが、自分の役目だと思っていた。だが、もし、その「知」を支える「心」となることが、自分にできるのなら。
彼女の心は、決まった。
それは、姫としての責任感でも、姉としての優しさでもない。
一人の女性が、自らの意志で、心を寄せた男性と共に生きる未来を選ぶ、気高い、そして何よりも強い覚悟であった。
彼女は、机に向かうと、一枚の新しい紙を取り、筆を走らせた。
それは、父や陳宮先生に提出する政策案ではない。
遠征の成功を祝い、凱旋したであろう、未来の彼に宛てた、恋文であった。
『単福殿へ。
北の地で、あなた様の帰りを、お待ちしております』
書き終えたそれを、彼女は大切に折り畳むと、文箱の奥深くへとそっとしまった。
いつか、この想いを直接伝えられる、その日まで。
(あなたと同じ言葉を話せる喜びを、知ってしまったから)
(もう、独りの夜には、戻れない)
知の姫君は、自らの恋に、そして未来に、静かな、しかし揺るぎない誓いを立てた。
書庫で芽生えた二つの魂の共鳴は、これから始まる長い戦乱の時を経て、やがて并州の地に、誰もが祝福する、美しい花を咲かせることになる。
二人が紡ぐ物語は、この夜、確かな未来へと向かう、輝かしい一歩を踏み出したのであった。