幕間ノ二:君がための知略
幕間ノ二:君がための知略
その夜、単福は、旅支度を整えながら、一人、書庫の窓辺に立っていた。
窓の外には、出陣を前にした晋陽城の、慌ただしくも、どこか引き締まった夜の空気が流れている。明日、自分も、あの軍勢の一員として、この城を出ていく。その事実が、まだどこか現実のものとは思えなかった。
彼の脳裏に、昼間の、あの息詰まるような謁見の光景が蘇る。
呂布将軍の、氷のような不信の眼差し。
(当然だ…)
彼は、自嘲気味に呟いた。罪人である自分を、民を守ると誓った君主が、そう易々と受け入れるはずがない。あの拒絶は、むしろ彼の君主としての潔癖さ、そして「義」の証左ですらあった。
だが、それでも、自分はここにいる。
この并州を去るのではなく、主君と共に、中原へと向かう機会を得た。
それは、全て、二人の恩人のおかげであった。
一人は、師である陳宮様。
あの人は、自らの命と名誉を賭してまで、自分を推薦してくれた。その大きな背中は、自分に向けられた呂布将軍の全ての不信を、一身に受け止めてくれていた。
罪人である自分を拾い、その知に価値を与え、そして今、輝くべき場所へと押し出してくれた。その恩は、もはや海よりも深い。
(先生…この御恩、必ずや、戦働きをもって、お返しいたします…!)
師への感謝と、その期待に応えねばならぬという、身の引き締まるような責任感。
そして、もう一人。
彼の脳裏に、亜麻色の髪を結い上げた、凛とした少女の姿が浮かんだ。
(暁姫様…)
その名を心で呟くだけで、胸の奥が、温かいような、切ないような、不思議な熱を帯びる。
父君に拒絶され、再び光を失いかけていた自分。罪人であるという、決して消えることのない烙印に、再び心を苛まれようとしていた自分。
そんな自分の元を、彼女は訪れてくれた。
そして、自分の過去ではなく、ただ、竹簡に記された「知」だけを見てくれた。
彼女との議論は、暗闇の中にいた彼にとって、何よりの救いであった。
『あなたは、やはり、この并州に必要な方です』
あの言葉が、どれほど自分の魂を震わせたことか。
罪人としてではなく、一人の「知者」として、自分を必要としてくれる人が、この世にいた。その事実だけで、彼は救われたのだ。
彼は、懐から、一枚の書きつけをそっと取り出した。
それは、昼間、暁が侍女を通して、そっと彼に届けてくれたものだった。そこには、ただ一言、こう記されていた。
『信じております』
その、あまりにも真っ直ぐで、力強い筆跡。
単福は、その紙片を、まるで天下の至宝であるかのように、両手で大切に握りしめた。
(暁姫様…あなた様もまた、私に賭けてくださったのですね)
(ならば、もう迷うことはない)
彼は、窓の外、遠い中原の空を見上げた。
そこには、これから自分が戦うべき、過酷な戦場が広がっている。
長安の賊徒、そして、いずれまみえるであろう、曹操という怪物。
(見ていてください、暁姫様)
単法は、心の中で、遠い少女に固く誓った。
(この単福の知は、もはや、ただ罪を償うためだけのものではありませぬ)
(あなたのその信頼に、応えるために。そして、あなたが愛するこの并州を、父君と共に守り抜く、鋭き刃となるために)
この知略は、全て、君がために。
決意を固めた彼の瞳には、もはや罪人の憂いの影はなく、主君の傍らでその道を照らす「参謀」となることを誓った、一人の男としての、静かで、しかし揺るぎない炎が燃え盛っていた。
彼の、本当の戦いが、今、始まろうとしていた。