幕間:軍師の布石
幕間:軍師の布石
謁見の間から下がる道すがら、単福は、まだ震えが収まらぬ己の拳を固く握りしめていた。
隣を歩く師、陳宮の横顔は、いつもと変わらぬ静けさを保っている。だが、その静けさの裏で、どれほどの覚悟と深慮が巡らされていたのか。
「先生…。某のために、命を…」
感謝の言葉を紡ごうとした単福を、陳宮は手で制した。
「礼を言うのはまだ早い。お前の真価が問われるのは、これからだ。そして、私が懸けたのは、お前個人のためではない。この陳宮の首と、并州の未来、その全てだ」
その言葉だけを残し、陳宮は自らの私室へと戻っていった。
一人、部屋に戻った陳宮は、并州全土が描かれた巨大な地図の前に立った。
今回の推薦は、単福を救うための単なる人情ではない。全ては、この乱世を勝ち抜くための、冷徹な計算と、未来への布石に基づいていた。
(殿の武は、天に与えられし至宝。あの武威を存分に振るわせるためには、一点の憂いもなく、前線に集中していただかねばならぬ)
そのための絶対条件が、本拠地・并州の安泰。東に袁紹、北に異民族が隙を窺うこの地を守る「盾」の役目は、この地の全てを知る自分以外には務まらない。
そして、呂布という最強の「矛」が、遠征先で兵糧に窮したり、敵の策に嵌ったりすることがあってはならない。その矛の補給路を確保し、軌道を正し、時には敵の意表を突く「もう一つの頭脳」が不可欠だった。
(単福よ。お主の緻密な計算能力と、物事の本質を見抜く洞察力。それこそが、殿の武を、真に天下無双の力へと昇華させるのだ)
陳宮は、自らの知謀に絶対の自信を持っていた。だが、自分一人では、盾と矛の役目を同時に果たすことはできない。単福は、この并州にとって、まさしく天が遣わしたもう一つの至宝なのだ。
彼の思考は、さらにその先を見据えていた。
呂布という男。その心の奥底にある、武への絶対的な自負と、知への根源的な不信。
だが、と陳宮は思う。
(殿は、決して愚かではない。張譲殿の死を経て、民を知り、国を知ろうと、今まさに苦しみながらもがき、成長しておられる。心の壁は厚いが、あの人は、根底では『真の知』の価値を理解できる器をお持ちだ。だからこそ、単福の、あの私心なき真摯な知性は、いずれ必ずや殿の心を動かすはずだ)
そして、陳宮の脳裏に、聡明な娘、暁の姿が浮かんだ。
あの怜悧な瞳。父を想う深い心。そして、単福の才能を一目で見抜いた、あの確かな眼力。
(暁様が、自らの意思で単福に惹かれた。あの二つの知性が共鳴したのには、天の配剤としか思えぬ意味がある)
この戦は、単福が自らの価値を証明するための試練であると同時に、暁が選んだ男の価値を、父である呂布に認めさせるための戦いでもある。
もし、単福がこの大役を果たし、殿からの絶対的な信頼を勝ち得たなら――。
(それは、いずれ并州の未来を担う暁様の、何よりの支えとなるだろう。武の血脈と、知の血脈。その二つが結ばれれば、この并州は、磐石となる…)
それは、軍師として、そして、この国の未来を憂う者としての、遠大なる布石。
陳宮は、窓の外で出陣の準備に活気づく城下を見つめ、静かに呟いた。
「行け、単福。お主の知が、天翔ける鬼神の隣に立つにふ-さわしいことを、その手で証明して見せよ。この并州の未来、そして、暁様の未来も、お前の双肩にかかっておるぞ」
彼の顔には、自らの策が動き出したことへの満足感と、未来を見据える師としての静かな覚悟が浮かんでいた。