第三十ノ二話:盾と矛の誓い
第三十ノ二話:盾と矛の誓い
「はい」
陳宮は、呂布の射るような視線に対し、一歩も引かずに答えた。
「彼の知略は、今やこの陳宮に勝るとも劣りません。特に、敵の策の裏を読む力、そして兵站を滞りなく維持する計算能力は常人の及ぶところではない。此度の遠征は、長距離、かつ、何が起こるか分からぬ困難なものとなりましょう。彼の知は、必ずや殿のお役に立ちます。いえ、彼の知なくして、この遠征の成功はあり得ませぬ」
それは、陳宮の、全てを賭けた推薦であった。
呂布は、しばらくの間、腕を組み、黙って陳宮を、そして、その隣で静かに頭を垂れる単福を睨みつけていた。
(…陳宮が、これほどまでに言うか…)
呂布の心は、揺れていた。罪人への嫌悪感と、最も信頼する軍師への信義。そして、何より、彼自身が抱えるジレンマ。
(此度の遠征、俺が矛となりて長安を衝く。ならば、并州を守る盾は、陳宮でなければならぬ。東の袁紹、北の異民族への備えは、この男なくしては盤石とは言えぬ。だが、陳宮を晋陽に残せば、遠征軍の軍師が手薄になる……)
呂布は、陳宮の推薦の裏にある、その深慮を、そして并州の現状を痛いほど理解していた。
信頼するが故に、遠征には連れて行けない。だが、連れて行かねば、軍の頭脳を欠くことになる。
その矛盾を解決する唯一の駒が、目の前にいる、いまだ信じきれぬ罪人。
その事実に、呂布は内心、舌打ちをした。
「…分かった」
長い沈黙の末、呂布は、大きなため息と共につぶやいた。
「…そこまで言うのなら、信じるしかあるまい。お前の見る目をな」
彼は、陳宮を、そしてその背後にいる単福を、厳しい、しかしどこか覚悟を決めたような目で見据えた。
「だが、言っておくぞ、陳宮。奴が、もし俺の、そして并州の民の信頼を裏切るようなことがあれば…その時は、お前が、責任をもって奴を斬れ。それが、できるな?」
「はっ。もったいなきお言葉。必ずや、殿のご期待に応えてみせます」
陳宮は、安堵の息を押し殺し、深く、深く頭を下げた。
そのやり取りを、単福は、息をすることさえ忘れ、ただ聞いていた。
呂布の、自分に向けられる、氷のような不信の眼差し。
そして、その全てを受け止め、自らの命すら賭して自分を推薦してくれた、師・陳宮の、大きな背中。
許された。
だが、それは信頼されたのではない。ただ、師の信義と、并州が抱える軍略上の必要性によって、最後の機会を与えられたに過ぎない。
彼は、静かに、そして力強く、床に額をこすりつけた。
言葉は、いらない。ただ、この行動で、自らの覚悟を示す。
呂布は、その姿を一瞥すると、興味を失ったように「下がれ」とだけ命じた。
単福は、陳宮と共に、静かに謁見の間を辞した。
こうして、并州軍の南下は決定した。
そして、軍師見習いとして、単福という、いまだその真価を主君に認められぬ謎多き学徒が、その列に加わることとなった。
彼の前には、長安の賊徒、そして、いまだ見ぬ宿敵との過酷な戦いが待ち受けている。
それは、彼が、自らの価値を、そして「知」の力を、あの絶対的な「武」の化身に認めさせるための、最初で、そして、おそらくは最後の機会となる戦いであった。