第三十話:最後の機会
第三十話:最後の機会
暁が自らのために父を説得してくれた――その事実を知った単福は、その夜、一睡もできなかった。
書庫の冷たい床の上で、彼は、感謝と、畏れと、そして、明日に迫った謁見への、身を切るような緊張感に、ただ打ち震えていた。
(姫君は、信じてくださった。この某の知が、并州の力となると。ならば、今度こそ…今度こそ、殿に認められねばならぬ…!)
そして、運命の朝が来た。
謁見の間。
呂布は、玉座から、階下で膝をつく一人の青年を、厳しい目で見下ろしていた。その視線には、「娘の顔を立てて会ってはやるが、俺の考えは変わらんぞ」という、頑なな意志が宿っていた。
だが、単福は、もう以前の彼ではなかった。暁という光を知った彼の心には、揺るぎない覚悟があった。
彼は、平伏したまま、静かに、しかし、その場にいる全ての者の耳を惹きつける明瞭な声で語り始めた。
「殿。某が罪人であるという事実は、決して変わりませぬ。ですが、その罪を償う道は、ただ無為に朽ち果てることではないと、信じております」
彼は、顔を上げた。その瞳は、呂布の氷のような視線を、真っ直ぐに受け止めていた。
「某の知は、殿の武の如く、敵を討つことはできませぬ。されど、その武を支えることはできまする。兵糧を滞りなく運び、兵士たちが飢えることなく戦えるようにすること。戦の後、民が一日でも早く、元の暮らしに戻れるようにすること。それこそが、某の戦い方。某の、贖罪の道にございます」
その、あまりにも真摯な言葉に、呂布の眉が、わずかに動いた。
張譲の死を経て、民と共に土を耕し、「支える」ことの重要性を、彼自身が、今まさに学んでいる最中だったからだ。
だが、それでも、呂布の心の壁は厚かった。
「…口先だけならば、何とでも言える」
拒絶の言葉が、再び冷たく突き刺さろうとした、まさにその時。
「申し上げます! 中原より、火急の報せにございます!」
伝令の兵士が、息を切らして広間に駆け込んできた。
長安で、ついに李傕と郭汜の内部対立が武力衝突へと発展。帝は、命からがら長安を脱出し、ボロボロの姿で旧都・洛陽へと逃げ延びたという。
その報は、張り詰めていた謁見の間の空気を一変させた。
将たちが色めき立ち、即座に軍議が始まる。
「…好機だ」
地図を睨んでいた呂布が、地を這うような低い声で言った。
「天が、我らに好機を与えてくれた。帝は、今や誰の庇護も受けられぬ、ただの赤子同然。この機を逃さず、我らが帝を保護し、長安の賊徒どもを討つ。これこそ、亡き親父殿が望んだ『義』の戦であろう!」
彼の瞳に、久しぶりに戦の炎が燃え上がった。
陳宮は、曹操の動きを冷静に警告し、迅速な行動の必要性を説く。呂布もそれに頷き、すぐさま出陣の準備を命じた。
謁見の場は、一瞬にして緊迫した軍議の場へと変わった。
その隅で、単福は息を殺していた。彼の処遇など、もはや誰も気にかけていない。このまま、歴史の大きなうねりの中で、忘れ去られた存在となるのか。
彼の心に、再び絶望の影が差した、その時だった。
陳宮が、覚悟を決めて、一歩前に出た。
「殿。ならば、此度の遠征に、今、この場におりまする我が弟子・単福を、軍師見習いとして、お連れくだされ」
静まり返る軍議の間。
全ての将の視線が、再び、部屋の隅で静かに控えていた単福へと集まった。
呂布は、忌々しげに陳宮を睨みつける。
「…陳宮。この状況で、まだその男を推すか」
その問いは、単福の運命を左右する、最後の問いかけであった。
彼の心臓が、張り裂けんばかりに鼓動する。
この一瞬に、彼の全てが懸かっている。