幕間:星のまたたき
幕間:星のまたたき
書庫から聞こえてきた、あの情けないほどの絶叫。
それを自室の窓辺で耳にした暁は、「ふふっ」と、思わず声に出して笑ってしまった。おそらく今頃、陳宮様から、私の正体を聞かされたのだろう。あの怜悧な学徒が、頭を抱えてうろたえている姿が目に浮かぶようで、おかしくて、そして、少しだけ愛おしかった。
(単福殿…)
暁は、机の上に広げられた竹簡から、そっと目を上げた。窓の外には、満天の星が、北の澄んだ夜空に瞬いている。
彼女の脳裏に、昼間の、あの熱を帯びた議論が蘇る。
初めは、純粋な好奇心と、そして姫としての責任感だった。
陳宮先生が、「面白い男がいる」と、珍しく目を輝かせて語っていた、謎の学徒。父上が、その過去を理由に、頑なに会おうとしないという、いわくつきの人物。
父の判断は、本当に正しいのだろうか。この并州は、今、一つでも多くの才能を必要としているはずだ。自分の目で、確かめねばならない。
書庫で出会った彼は、噂通り、影を背負った、無愛想な男だった。
だが、一度、議論が始まると、その印象は一変した。
彼の頭脳は、まるで広大な星図のようだった。複雑に絡み合った数字や法の中から、常に最短で、最も美しい答えを導き出す。一つの問いを投げかければ、十の答えが返ってくる。その思考の速さと深さに、暁は、武人が好敵手に出会った時のような、魂が震えるほどの興奮を覚えていた。
(…楽しい)
生まれて初めて、そう思った。
これまで、自分の言葉を、その真意を、完全に理解してくれる人はいなかった。父上は優しく聞いてくれるが、難しすぎるとすぐに飽きてしまう。陳宮先生は偉大すぎる師であり、その教えは常に正しいが、対等な論敵ではない。
だが、彼は違った。
彼は、私の言葉を、私の思考を、全て受け止め、そして、さらに高い場所から、それを投げ返してくる。
**この并州に、私と『真-剣勝負』をしてくれる人がいた。**その事実だけで、彼女がずっと心の内に抱えていた「知的な孤独」が、氷が溶けるように、すうっと消えていくのを感じた。
そして、気づいてしまった。
国のためだ、父のためだ、と自分に言い聞かせてきた、この胸の高鳴りが、それだけではないことを。
(父上は、まだ、あの人の本当の価値にお気づきでないだけ)
そうだ、説得せねばならない。
あの人の知恵は、この并州にとって、絶対に必要だ。父上の武と、陳宮先生の経験、そして、あの人の新しい知性が合わされば、この并州は、きっと本当の楽土になれる。それが、姫としての私の務め。
そして、何より。
(…また、お話がしたい)
ただ、もう一度、あの人と、時を忘れて語り合いたい。それが、暁という、ただの少女としての、私の偽らざる願い。
その二つの想いが、彼女の中で一つになる。
国のためにも、そして、自分のためにも。あの人を、この并州に繋ぎ止めなければならない。
それは、まだ恋とは呼べない、淡い、星のまたたきのような感情。
だが、その小さな光が、やがて彼女自身の、そして、この并州の未来さえも照らす、大きな光となることを、彼女はまだ知らない。
暁は、再び竹簡へと目を落とした。だが、その瞳に映っているのは、もはや難解な文字ではなく、あの無愛想な学徒の、議論に夢中になる、少年のような横顔であった。