第二十九ノ二話:才媛の正体
第二十九ノ二話:才媛の正体
謎の才媛との出会いから一夜。
単福は、書庫の窓から差し込む朝日を浴びながらも、手元の竹簡に全く集中できずにいた。
頭の中は、昨日の出来事で満たされている。孤独な学究の日々の中で、初めて出会った魂の共鳴者。彼女の投げかける問いの鋭さ、思考の深さ、そして、議論の熱に輝いていたあの瞳が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
(一体、どこの御方なのだろう……)
これまでは、書物と知識だけが彼の世界の全てだった。だが今は、昨日の才媛ともう一度、いや、何度でも言葉を交わしたいという、これまで知らなかった渇望が胸を占めている。去り際に見た、年相応の無邪気な笑顔を思い出すたび、胸の奥が不思議な温かさで満たされるのだった。
その夜。
考え事に没頭する単福の元へ、陳宮が、どこか面白がるような、含みのある笑みを浮かべてやってきた。
「単福よ。昨日、お前と話した娘御のことだがな……」
その言葉に、単福は弾かれたように顔を上げた。
「ええ、素晴らしい才媛でした!」
彼の頬が、無意識に緩むのが自分でも分かった。
「一体、どちらの家の御方なのでしょうか。ぜひ、もう一度お話を伺いたいのですが……」
「うむ。その才媛が、お前のことを殿に強く推挙してくださったぞ」
陳宮は芝居がかった口調で続けた。
「『父上、あの単福という方の知恵は、必ずや并州の宝となります。あのまま埋もれさせては、天下の損失です』と、な」
「なんと……!」
単福は驚きに目を見開いた。
「その方は、殿にそこまで言えるほどの御方なのですか?」
「ああ。殿も、溺愛する娘の熱意には負けたと見える。**一度だけ、お前に謁見の機会を与えると仰せだ。**良かったではないか」
謁見の機会。その言葉に、単福の心臓が希望に大きく跳ねた。
だが、それよりも大きな疑問が、雷のように彼の頭を撃ち抜く。
(父上……? 殿を『父上』と呼ぶ、溺愛する娘……?)
「……は?」
単福は、間の抜けた声を出した。
「……む、娘……? 殿の……?」
「とぼけるな!」
陳宮は、ついに堪えきれずに吹き出した。
「お前が昨日、一日中議論を交わしていた、あの御方! 我が主君、呂布将軍がご長女、暁姫様に決まっておろうが!」
単福の思考は、完全に停止した。
(暁……姫……? 呂布将軍の、長女……?)
脳裏に、昨日の、あまりにも無礼で、あまりにも対等だった自分たちのやり取りが、走馬灯のように駆け巡る。
『問題などない。計算上は、完璧なはずだ』
『ならば、こうするのはどうだ』
そして、姫君が寂しそうに微笑んで言った言葉。
『父上が、毎夜、頭を抱えておられるからですわ』
あの言葉は、どこかの文官のことなどではなかった。この并州の絶対的な主、あの鬼神・呂布奉先の、誰にも見せぬ君主としての苦悩を、娘としてすぐそばで見ていたからこその、言葉だったのだ。
(ああ、俺は、姫君相手に、一体、何を……)
「あああああああああああああああっ!」
その夜、晋陽城の書庫から、一人の若き学徒の、世にも情けない絶叫が響き渡ったという。
彼は、己の不敬罪で首が飛ばなかった幸運に感謝しつつ、それ以上に、そんな自分を笑って受け入れ、あまつさえ父君に推挙してくれた姫君の、その計り知れない器の大きさと、議論の合間に見せたあの無邪気な笑顔を思い出し、生まれて初めて、胸が苦しいほどの甘い熱に浮かされるのであった。
閉ざされかけていた彼の心は、領主の娘がもたらした、ささやかな、しかし確かな共鳴によって、再び未来への希望を取り戻し始めていた。