第二十九話:書庫の才媛
第二十九話:書庫の才媛
呂布からの絶対的な拒絶。
その事実は、単福の心を、深く、そして静かに蝕んでいた。
(やはり、罪を犯した者が、日の当たる場所で生きることなど許されないのか……)
自責の念と、己の才能を活かせぬもどかしさ。
彼は、再び書庫に籠もり、まるで何かに取り憑かれたかのように、ただ黙々と并州の内政改革案を書き連ねる日々を送っていた。誰に命じられたわけでもない。そうせずには、己の心の均衡を保てなかったのだ。
その日、書庫に、一人の年若い女性が、侍女も連れずにふらりと入ってきた。
「……ここは、父上の書庫ではないのですね。迷ってしまいましたわ」
亜麻色の髪を品良く結い上げ、その瞳は、少女のあどけなさを残しながらも、星のように澄んだ深い知性の光を宿している。単福は、城に仕えるどこかの文官の娘だろうと、ぼんやり思った。
「失礼。ここは陳宮先生の私室にございます。殿の書斎は、向かいの棟に」
単福が、無愛想にそう答えると、娘は悪びれもせずに、彼が机の上に広げていた竹簡にすっと目を落とした。
「これは……屯田制の新たな税率案?」
娘は、断りもなくその竹簡を手に取ると、食い入るように読み始めた。
「……この税率、見事です。民の負担を最小限に抑えながら、国の備蓄を確実に増やす。まるで、生き物のように数字が動いている……。ですが、これを書かれた方。この策を実行するには、一つ、問題がございませんか?」
「なに……?」
単福は、思わず眉をひそめた。見ず知らずの娘に自らの策の欠点を指摘され、彼の学徒としてのプライドが刺激されたのだ。
「問題などない。計算上は、完璧なはずだ」
「いいえ、あります」
娘は、きっぱりと言った。
「机上の計算は、完璧ですわ。ですが、人の心が計算に入っておりません。この策は、各郡を治める豪族たちの協力がなければ成り立ちません。ですが、彼らは自らの利益が損なわれるこの改革に、素直に従うでしょうか。おそらく、帳簿を偽り、あの手この手で抵抗してくるはずです」
その指摘は、単福がまさに今、頭を悩ませていた、この策の最大の難点であった。
「……なぜ、それを……」
「父上が、毎夜、頭を抱えておられるからですわ」
娘は、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「父上は、民を想うお気持ちは誰よりも強い。ですが、人の心の裏を読むのは、少し、お苦手なのです」
単福は、息を呑んだ。
目の前の、まだ年若い娘が、この国の抱える問題の本質を、自分と同じ、いや、それ以上に深く理解している。
「……ならば、こうするのはどうだ」
単多は、もはや相手が誰であるかも忘れ、衝動的に、新たな紙を取り出した。
「豪族たちを力で押さえつけるのではない。彼らにもまた、利益を与えるのだ。例えば、改革に協力した者には、新たな商業の優先権を与える、とか……」
「飴と鞭ですね。ですが、それだけでは、狡猾な者は飴だけをしゃぶり、鞭からは逃れようとします。罰則を、もっと厳格に、そして公平に適用する仕組みが必要では?」
二人の会話は、もはや止まらなかった。
税制、法、兵站、外交……。一つの問いを投げかければ、相手からは予想もせぬ角度からの答えが返ってくる。知性と言葉が、まるで鍛冶場で打ち合う剣のように火花を散らし、互いを高め合っていく。
単福は、生まれて初めて、これほどの知的な喜びに打ち震えていた。
孤独だった彼の知性が、初めて自分と対等な、いや、それ以上の魂と共鳴している。この感覚は、彼がこれまでの人生で追い求めてきた、学問の道の答えそのもののようであった。
気づけば、窓の外はとっぷりと日が暮れていた。
「……いけない。長々と、お邪魔をしてしまいましたわ」
娘が、我に返って慌てて立ち上がる。
「いや、こちらこそ……。久方ぶりに、胸のすくような時を過ごせた。礼を言う」
単福が素直にそう言うと、娘は年相応の無邪気な笑顔を見せた。
「こちらこそ、とても、楽しゅうございました」
去り際、娘は、もう一度だけ振り返った。
その瞳には、議論の熱とは違う、どこか名残惜しそうな光が揺れているように見えた。
「……また、お話をお聞かせくださいね。……単福殿」
その言葉を残し、彼女は去っていった。
一人残された書庫で、単福は、心地よい疲労感と、満たされた思いに包まれていた。
(どこの家の娘御かは知らぬが、この并州には、あれほどの才媛がおられたとは……)
それだけで、彼は、もう少しだけ、この地で戦ってみようと思えた。
彼の心に灯った小さな希望の光。だが、彼はまだ知らない。この謎の才媛との出会いが、彼の運命を、そして并州の未来をも、大きく揺り動かすことになるということを。