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幕間:軍師の深慮

幕間:軍師の深慮

呂布が単福の登用を正式に拒絶してから、数日が過ぎていた。


軍師・陳宮は、自室で深く長い溜息をついていた。彼の目の前には、単福が自発的にまとめ上げた、并州各地の兵站と物流に関する驚くほど緻密な改革案が置かれている。無駄をなくし、効率を上げ、浮いた資源を民の食糧や新たな武具に回す…まさに完璧な内容だった。


「これほどの才能を、腐らせるというのか……」


陳宮は、書庫に籠もり、まるで己の存在意義を確かめるかのように黙々と策を練り続ける単福の姿を思い浮かべ、胸を痛めていた。

呂布の言い分も分かる。己の罪と向き合うが故の、悲しいまでの潔癖さ。正面から「過去を問うな」と説いても、今の殿には届かないだろう。


それ以上に、陳宮自身の胸にも、一つの棘が刺さっていた。

『貴様が、俺に黙って、一年近くも罪人を傍に置いていた。その事実が、俺には許しがたい』

あの時の、呂布の苦悩に満ちた瞳。

(俺は、殿の孤独を和らげるどころか、新たな不信の種を蒔いてしまった…)

良かれと思ってしたことが、結果として主君の最も触れられたくない傷に触れてしまったのだ。このままでは、并州は宝を失うだけでなく、君臣の間に癒えぬ溝が残ってしまう。


(…正面から扉が開かぬのなら、別の道を探すまで。そして、その道は、殿と俺との信頼を取り戻す道でなくてはならぬ)


陳宮の瞳に、怜悧な光が宿った。


その日の午後、陳宮は、別の内政案件の報告を口実に、呂布の私室を訪れた。

部屋では、呂布が眉間に深い皺を寄せ、豪族との税収問題に関する木簡の山と格闘している。その傍らには、娘の暁が、父の仕事を手伝いながら、時折、的を射た意見を述べていた。


「父上、この豪族の納税記録、昨年の旱魃かんばつの影響を差し引いても、数字の減り方が不自然ですわ。近隣の村々と比較すれば、何か見えてくるかもしれません」


「うむ……」


呂布が、娘の聡明な言葉にだけは、どこか嬉しそうに耳を傾けている。その様子を見た陳宮の心に、ある計画が芽生えた。


陳宮は、まず手元の案件について滞りなく報告を終えた。そして、帰り際、まるで独り言のように、しかし、暁の耳にはっきりと届く声で呟いたのだ。

「…それにしても、この豪族問題。実に厄介ですな。これを解きほぐすには、各村の過去数年にわたる天候と収穫量の記録を洗い出し、金の流れを一つ一つ照らし合わせる、気の遠くなるような作業が必要でしょう。今の我らには、そこまで手が回りませぬな…」


その言葉に、真っ先に反応したのは暁だった。

「陳宮様、お待ちください。その作業、それほどまでに困難なものなのでしょうか?」


陳宮は待ってましたとばかりに、しかし表情には出さず、穏やかに振り返る。

「ええ、暁様。膨大な木簡を読み解き、数字の裏に隠された人の嘘を見抜く、特殊な才覚が求められます。戦の采配とは、また質の違う知恵が必要なのです」


陳宮は、この出会いが、単福を救うだけでなく、暁自身の成長にも繋がると考えていた。

(暁様は、父君と違い、心の柔らかさをお持ちだ。机上の学問ではない『生きた知恵』と『人の心の複雑さ』を学ぶ、またとない機会となるやもしれん)


師としての視点から、陳宮は仕上げの一手を打つ。

「実は、以前お話しした学徒に、私の書庫で古い資料の整理を手伝わせておりまして。彼ならば、あるいは…とも思うのですが、いかんせん、訳ありの身。私が殿に隠し立てをしていたとあっては、殿のお許しは到底得られますまい。 このような重要な案件を任せるわけにはまいりません」


「……」

呂布は、単福の名を聞いて、わずかに眉をひそめた。だが、陳宮が自らの非を認め、「任せるわけにはいかない」と結論づけたため、それ以上は何も言わなかった。彼の表情から、ほんの少しだけ、棘が抜けたように見えた。


陳宮は、静かに一礼して部屋を辞した。


陳宮が去った後も、暁は物思いに耽っていた。

父が頭を悩ませる豪族問題。それを解く鍵となる「気の遠くなるような作業」。そして、陳宮がそこまで惜しむ「特殊な才覚を持つ学徒」。


父の助けになりたいという純粋な想い、そして、父が認めぬ才能への尽きせぬ興味。

その二つが、彼女の中で大きなうねりとなっていた。


「陳宮様の書庫……」


彼女が小さく呟いたその時、運命の歯車は、確かに回り始めた。


自室に戻った陳宮は、窓の外を見ながら、静かに碁石を一つ置いた。

「さて、種は蒔いた。あとは、二つの光が出会い、互いをどう照らし出すか…。この陳宮の策を超えた、天の配剤、見せてもらおうか」


彼の視線の先では、暁が父の私室を後にし、迷うことなく書庫のある棟へと向かっていた。

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