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第七話:赤兎無双、陽動の罠

第七話:赤兎無双、陽動の罠

谷間に響き渡る鬨の声は、まるで地の底から湧き上がる怨嗟のようだった。三方から迫る黒山賊の波。崖の上から降り注ぐ矢石の雨。呂布は、この圧倒的な物量と殺意の中心で、ただ一人、方天画戟を構えていた。


(…恐ろしくはないか?)


一瞬、自らの心に問いかける。答えは否。恐怖ではない。だが、焦りにも似た、肌を焼くような高揚感があった。それは、自らの武の限界を試されているという、武人としての本能的な歓喜。そして、この戦いの先に待つ、仲間たちの命運を一身に背負う者としての、凄まじい重圧であった。


「陳宮…張遼…信じているぞ…!」


誰に言うでもなく呟くと、呂布は咆哮した。それは、自らを鼓舞し、そして遠くにいるであろう戦友に「俺はまだここにいるぞ」と知らせるかのような、魂の叫びであった。彼は赤兎を疾駆させ、敵陣の最も厚い場所へと突っ込んでいく。


「ぎゃああ!」

「ひ、化物か!」


方天画戟が赤い旋風を描く。それはもはや殺戮ではなかった。敵の戦意を根こそぎ奪い、注意を自分一人に引きつけるための、計算され尽くした舞。彼は意図的に敵の指揮官らしき男の前で馬を止め、そのかぶとだけを戟の穂先で弾き飛ばし、恐怖に引きつる顔を晒させた。かと思えば、密集する部隊のど真ん中を駆け抜け、ただその威圧感だけで隊列を分断する。


「はっはっは! この程度か、黒山賊! 軍師の于毒とやらはどこにいる! 顔を出せ! この呂布奉先が、直々に相手をしてやるわ!」


挑発的な言葉を叫びながら、彼は敵陣を縦横無尽に蹂躙する。しかし、その神業的な戦いぶりも、永遠には続かない。敵の波は、押し寄せても、押し寄せても、尽きることがない。赤兎の呼吸は次第に荒くなり、呂布自身の額にも、脂汗が滲み始めていた。


(張遼は、まだか…!)


口には出さずとも、その思いは焦りとなって彼の戟先を僅かに鈍らせる。信頼、という言葉の重みを、彼は今、全身で感じていた。自分の陽動が成功しなければ、張遼の奇襲も意味をなさない。そして、張遼が失敗すれば、自分たちはこの谷で干上がるだけだ。


その時、一瞬の隙を突いて、崖の上から巨大な丸太が投下された。赤兎が驚異的な反応でそれを回避するが、すぐそばに着弾し、土煙と衝撃が呂布を襲う。体勢を崩したその瞬間を、伏兵の槍が狙った。


「もらった!」


槍が、呂布の脇腹を深く抉らんと迫る。万事休すか。

しかし、その槍は呂布に届く直前で、後方から飛来した一本の矢によって弾き飛ばされていた。


(矢…? 味方のものか?)


後方を振り返る余裕はない。だが、呂布の背後、小高い丘の上で戦況を見守っていた陳宮は、静かに弓を下ろす一人の兵士の姿を認め、小さく頷いていた。彼は、呂布の護衛として、并州随一の弓の名手を密かに配置していたのだ。


(将軍、あなたの武は信じております。ですが、あなた様を支えるのが、某の役目…!)


呂布は、再び体勢を立て直し、方天画戟を構え直した。彼の瞳には、焦りの色が消え、代わりに、仲間への信頼から生まれる、より深く、静かな闘志が燃え盛っていた。彼は、ただひたすらに敵を引きつけ、時間を稼ぐ。この戦いは、もはや己の武を示すためのものではない。遠くにいる仲間が刃を振るいやすいように、その道筋を作るための、盾となる戦なのだ。彼は、初めて、誰かのための「盾」となる己の武に、誇らしさにも似た感情を覚えていた。

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