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第一話:北の飛将

第一話:北の飛将

并州、五原郡の北境に近い曠野(こうや)は、その日、骨まで凍みるような風が吹きすさんでいた。空は厚く垂れ込めた鉛色の雲に覆われ、遥か南には、(かん)が築いた長城の巨大な影が、この地の厳しさを象-徴するようにぼんやりと霞んでいる。風は砂塵と共に、遠い草原の乾いた草の匂いと、微かな獣の匂いを運んできた。


地平線の彼方から、それは現れた。黒い、(うごめ)く点の群れ。瞬く間に数を増し、大地を覆い尽くさんばかりの巨大な波となって押し寄せてくる。匈奴(きょうど)の騎馬兵団だ。独特の意匠が施された狼の旗印が風にはためき、毛皮や骨で飾られた武具が鈍い光を放つ。大地を揺るがす(ひづめ)の音と、天を()くような蛮声は、彼らが飢え、奪うために、必死の覚悟でこの境界線を越えてきたことを物語っていた。


「……来たか」


その声は、風音にも、敵の(とき)の声にもかき消されることなく、岩場に凛として響いた。声の主は、風を真正面から受けるように、小高い岩の上に一人、仁王立ちになっていた。まだ若いが、その立ち姿には揺るぎない威厳と、嵐の前の静けさのような張り詰めた気配が漂う。燃えるような深紅の戦袍(せんぽう)は、彼の内に秘めた激しい闘志が形になったかのように、風に翻っている。腰には武骨ながらも業物(わざもの)と分かる剣。そして、その両の手には、異様なまでの存在感を放つ長大な(ほこ)が握られていた。左右に付いた月牙(げつが)と呼ばれる刃が、鈍い銀色の光を放っている。まさしく、方天画戟(ほうてんがげき)


男の名は、呂布。字は奉先。その武勇は既に并州に轟き渡り、北方の異民族からは、畏敬と恐怖を込めて「飛将」――天翔ける将軍、と呼ばれていた。


「奉先様!敵の数、およそ五千!我が方の手勢は僅か三百!敵の先鋒には、あの『黒狼』の旗印も見えます!ここは一旦退き、丁原様のご本隊と合流すべきかと!」


岩の下から、老将・張譲(ちょうじょう)が、必死の形相で声を張り上げた。彼は丁原が信頼する将の一人であり、呂布の武才を認めつつも、その若さと危うさを常に案じている男だった。三百対五千。常識で考えれば、撤退以外の選択肢はありえない。周囲の兵士たちの顔にも、隠しきれない恐怖の色が浮かんでいた。


岩上の若武者は、動じなかった。(たか)のように鋭い双眸(そうぼう)は、眼前に迫る黒い波を、冷静に、しかし燃えるような光を宿して見据えている。


「退く、か…」


呂布は、低く呟いた。脳裏に、育ての親である丁原の、厳しくも温かい眼差しが浮かぶ。そして、晋陽の屋敷で父の帰りを待つ、三人の幼い娘たちの顔も。

(あの子たちに、臆病な父の姿は見せられん。そして、この并州の地が蹂躙されれば、あの子たちの未来もない…)


「…いや、退かぬ」呂布は迷いを振り払うように首を振った。その声に、もう迷いはなかった。「馬鹿を申せ、張譲。貴殿は忘れたか。丁原(おやじ)殿の顔に、泥は塗れん」


その呼び方を口にする時だけ、彼の厳しい表情が僅かに和らぐ。彼にとって丁原は、命の恩人であり、武の師であり、そして唯一、彼を理解し、導いてくれる存在なのだ。


「それに…」呂布は、ふっと口元に獰猛(どうもう)な笑みを浮かべた。「ここで退けば、并州武士の名が(すた)るだろう?」


その言葉に、張譲は息を飲み、周囲の兵士たちの目に、再び闘志の光が宿り始めた。


呂布は、傍らに控えていた愛馬に、風のように軽やかに飛び乗った。雪のように白い毛で覆われた涼州産の駿馬、名を「飛雪(ひせつ)」という。彼はその首筋を一度、力強く、しかし愛情を込めて撫でた。「頼むぞ、相棒」。飛雪は応えるかのように、高く、鋭く(いなな)いた。


呂布は、馬上から三百の兵士たちを見渡し、方天画戟を高々と天に突き上げた。

「者ども、聞け! 敵は数こそ多いが、所詮は飢えた狼の群れよ! 恐れるな!」呂布の声が、雷鳴のように曠野に轟いた。「お前たちの背後には何がある! 家族か! 故郷か! 己の誇りか! それを蛮族どもに蹂躙(じゅうりん)させてなるものか!」


その問いかけは、兵士たちの心の最も深い場所に突き刺さった。死の恐怖を、守るべきものの価値が凌駕し始める。


「この呂奉先に続け! 奴らに并州の武の恐ろしさ、骨の髄まで教えてくれるわ!」


「「「応っ!!」」」


地鳴りのような雄叫びが、三百の声とは思えぬほど大きく響き渡った。

呂布は満足げに頷くと、方天画戟を構え直し、飛雪の腹を強く蹴った。白き駿馬は咆哮(ほうこう)に近い嘶きを上げ、矢よりも速く、ただ一騎、五千の敵へと向かって駆け出した。その背後から、三百の兵士たちが、死兵と化して続く。


砂塵の向こう、匈奴の先鋒を率いる将は、信じられないものを見るように目を見開いた。三百の手勢が、しかもその先頭に立つのは僅か一騎の武者が、五千の大軍に向かって正面から突撃してくる。狂気の沙汰か。

だが、その深紅の戦袍を纏った若武者の姿には、人間のものとは思えぬほどの圧倒的な「気」が満ちており、歴戦の匈奴兵たちすら、本能的な恐怖に背筋が凍るのを感じた。

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