第2章「乾きの号令」第2話~命の沈黙~
朱殿には、風がない。
ただ、重たい空気だけが床を這い、しんとした冷気が漂っていた。
その中心で、シアは一人、佇んでいた。
鏡のように静かな水盤を前に、薄く目を閉じている。
「シア様……」
背後から声がかかる。副官の青年だった。
「ご無理をなさらず……お身体が冷えます」
「……ありがとう。でも、いいのよ。ここは、私にとって一番落ち着く場所だから」
答えながらも、彼女の声には迷いがあった。
朱殿を覆う冷気の奥に、かすかに揺れるもの――
それは、“決断”という名の刃。
(どうすれば、正解なの?)
心の中で問う。
このままでは、王国の末端から、命が枯れていく。
けれど、その手立ては――あまりにも極端だった。
「……やるしか、ないのね」
ぽつりと漏れた声に、副官が息を呑む。
「シア様……まさか……」
副官の言葉を背に、シアはゆっくりと振り返った。
その瞳には、曇りがなかった。
何度も思考を巡らせ、何層もの葛藤を飲み込んだあとに残った、ただ一つの結論。
「……全気孔の閉鎖を命じます」
静かな声だった。
けれどその一言で、室内の空気が一変した。
「シア様、それは――!」
副官の声が震える。
「光合成も、呼吸も……王国の生命活動そのものが……!」
それでも、彼女の声は乱れなかった。
「だからこそ、です」
白くしなやかな指先が、宙をなぞるように動く。
「今、命を動かすということは、命を削ること。……ならば、眠らせた方がいい」
副官は絶句した。
「この決断が、正しいかはわかりません。でも、私の責務は……この王国の命を、未来へ繋ぐことです」
彼女はほんの一瞬だけ目を伏せた。
だが次に顔を上げたとき、その瞳は揺るぎなかった。
風が止まった王国で、朱殿の女は声を放つ。
「――全気孔を閉鎖せよ。これは、私の命です」
その声は、切り裂くように澄んでいた。
そして、王国中の気孔が静かに閉じられていった。
⸻
その知らせは、騎士団の訓練場にも届いた。
「気孔が……閉じられた!?」
トウカの声が上ずる。
遠くから、騎士団の使いが走ってきた。
「王国全土に緊急命令!全気孔、完全閉鎖!現在、光合成機能は全停止中!」
ざわめきが広がる。
訓練生たちは皆、動揺し、騒然となった。
「えっ……それって、呼吸もできなくなるってことでしょ!?」「そんな、食料の供給はどうなるのよ!?」
「落ち着いて!騒ぐな、空気が重くなる!」
声が飛び交うなか、ただ一人、リュミエールは空を見つめていた。
「……やっぱり、そうだったんだ」
「リュミエール?」
「ずっと、感じてたんだ。風も、葉の動きも、光の跳ね返り方も……全部、少しずつおかしかった」
その横顔は、どこか達観しているようにも見えた。
「誰かが、決断を下したんだ。王国の命を……守るために」
⸻
碧苑。
静まり返った空の下、カインは一人、両手を握りしめていた。
彼の周囲では、動揺した民たちが口々に不安をこぼしていた。
「なんで気孔を閉じるんだよ!」「生き物が生きられなくなるじゃないか!」
その声を、カインは黙って聞いていた。
そして、やがて――
「……うるせぇ!!」
怒声が、苑に響き渡った。
全員が驚き、カインの方を見る。
「文句言ってもしょうがねぇだろ!誰だって好きでこんな決断したわけじゃねぇ!」
その目には、悔しさと、何かを守りたいという必死さが宿っていた。
「……生きるためだろ……!それ以外、なんにもねぇんだよ!」
誰も、何も返せなかった。
ただ、風のない空を見上げながら、皆が静かに俯いた。
⸻
その夜。
王国は静かだった。
音も、風も、呼吸も――何もない。
ただ、静けさだけが降りてくる。
その中で、リュミエールは再び空を見上げていた。
(この決断は、正しかったのだろうか……)
けれど、その答えはまだ出ない。
出せるはずがない。
なぜなら、それは“未来”の中にしか、存在しないのだから。
アブシシン酸は、個人的に結構思い入れの強いホルモンなんですが、全気孔を閉鎖せよ!は言わせたかったんですよね。
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