第1章「静かな兆し」第5話~影の名~
根の奥に、名もない影がゆらりと漂っていた。
湿った空気に溶け込むように、
その輪郭は確かめようとしても滲んでいく。
ミコルが一歩前に出た。
「……お前は、何だ。」
返事のように、ひび割れた囁きが根の奥で揺れた。
『……何だ? 誰でもない……何でもない。』
「ここまで根を硬化させて、何が目的だ。」
ミコルの声に苛立ちはなく、
土の奥を読むような静かさだけがあった。
影は小さく笑うように、
ひとつだけ音を漏らした。
『……わたしは何もしていない。
ただ、ここにいるだけ。』
ノアが封衛の刻印を土に押し当てながら言葉を重ねた。
「“いるだけ”でこうなるわけがない。
どこから来た。」
『……どこから来たか……?』
影が、根の奥でひび割れた声を落とした。
『王国の奥深く……
――コアセルから。』
空気が凍るように止まる。
「コアセル……?」
トウカが剣を握り直しながら眉を寄せる。
ノアが静かに口を開いた。
「……文献には、
王国の中心にあるとされる場所だ。
王国のすべてを司り、
命の巡りを繋ぐ核だと記されている。」
影は小さく笑う。
『時が来ただけ。封じられても、
巡りが乱れれば……動くもの。
だから、わたしはここにいる。』
ミコルは土の奥に目を落としたまま、
わずかに息を呑んだ。
「……巡りが…乱れる……?」
トウカは根の硬化した部分を睨む。
「そんな場所から……
おまえは一体何をしに来た。」
影は輪郭を滲ませたまま、
何も答えなかった。
ミコルは苦笑のように息を吐いた。
「……お前、としか呼びようがないのは不便ですね。せめて呼び方ぐらい教えてもらえませんか?」
影はかすかに笑う。
『……フォルミナとでも、呼べばいい。
名前なんて……ただの仮の形。』
フォルミナがそう囁いたとき――
足元の硬化した根が、
わずかにひび割れる音を立てた。
土の奥を伝って、
不気味な冷たさが、すうっと這い上がってくる。
ミコルが小さく息を呑む。
「……また広がって……?」
トウカは根を睨みつけ、
歯を噛み締めた。
「何が“いるだけ”だ……
根を……壊してるくせに……!」
剣を構える彼女の瞳には、
迷いがない。
「ごちゃごちゃ言ってんじゃないよ……!」
硬化した根の上を踏み締める音が
湿った空気を裂いた。
剣閃が根の奥の空気を裂く。
だが、影は霧のようにひとつも抵抗なく消えた。
「……逃げた……?」
剣を握り締めたまま、トウカが奥を睨む。
しかし根のひび割れから、
再び気配が滲んでくる。
『……わたしは“いる”だけ。
いつでも……どこでも……』
その隣で、リュミエールの目がわずかに揺れた。
彼は硬化した根にそっと手を触れた。
「……コアセルが……
崩れてる……?」
トウカが思わず振り返る。
「……あんた、そんなことわかるの?」
リュミエールは土に触れた手を少しだけ握りしめた。
「……なんとなく、だけど……
わかる気がするんだ。」
ひび割れた影が、
根の奥で微かに笑った。
『……わかるのか。』
湿った声が、
土の奥を撫でるように漂った。
リュミエールは戸惑いながらも、
小さく頷いた。
『……名前は。』
影の問いに、
リュミエールは息を詰め、
それでもはっきりと答えた。
「……リュミエール。」
影がゆらりと輪郭を揺らし、
名を噛みしめるように繰り返す。
『……リュミエール。
……面白い。』
ひび割れた声が
湿った土の奥に溶けていく。
影は霧のように、
何も残さずに消えた。
根の奥には、
微かな冷気だけが残されていた。
「……なんだったんだ、あいつは。」
トウカの声が、
湿った静寂に小さく沈んだ。
リュミエールは土に触れた手を離せずにいた。
コアセルはDNA、フォルミナはトランスポゾンをイメージしています。
トランスポゾンとは、細胞の核内を移動する“飛び跳ねるDNA”のこと。
本来の遺伝情報に入り込むことで、
その情報を壊したり、思いがけない変化を引き起こすことがあります。
植物にとっては、時に脅威であり、時に進化の引き金にもなる存在です。
そんな“異質なもの”として、フォルミナを描きました。
少し不穏で、でも目を離せない存在になっていれば嬉しいです。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
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