欲に溺れて
「ミオルさん、あなたは欲がどこからくると考えますか。」
リルがそう尋ねたのは、月に1度の定期報告の時だ。
始めて大神殿を訪れた日から既に2ヶ月が経過している。
リルに与えて貰った孤児の世話係という役職で手一杯の今、候補者捜しに進展がなくこの定期報告もほぼ雑談の時間だ。
「欲か?」
普段国王としての仕事と両立しながら神殿長としても多くの教徒と向き合い多忙を極めているリルが、ついに壊れてしまったかという雑念が一瞬頭を横切る。
「えぇ、欲です。」
だが、リルは至って真面目なようでいつものようににこやかな表情をしている。2ヶ月リルを見ていて気付いたが、リルのこの表情は真面目なときや真剣なときに作られる。
「欲、っていわれても。」
欲、欲、と頭の中で反芻する。
欲、欲望。何かをしたい、欲しいという気持ち。
正直、あまり良い印象を持てない言葉だ。欲に溺れるという言葉もあるように、ありすぎると良くない。
けれど誰もが持っているモノでもある。チョコレートが食べたい、もっとお金が欲しい、成功したい、見下されたくない、もっと広い土地を、もっと確実な権力を。その欲こそが生き物らしさでもあるだろう。
生きたい、死にたくない、何かを食べたい、寝たい。だれも当然持つであろうこれらの感情も、欲と言われる。
「俺たちが生きるのに必要なもの?」
こも答えは問いと全く噛み合っていないが、これ以上考えても混乱するばかりだ。
「そうですか、では欲がなければどうなるでしょうか。」
やはり満足はしなかったようで、別の質問が返ってくる。
欲がなければ、欲がなければ。
欲にも色々な種類があると、友人が言っていた。
食欲、物欲、生存欲、睡眠欲。そもそも欲がなくなれば生きたいという気持ちがなくなるはずだ、なら死ぬのか?
でも、死にたいという欲すらなくなるから自殺はしないはず。じゃぁ、何も食べずに衰弱死するとか。それだと生まれた時点ですぐ死んでしまう。赤ん坊でなくとも数日で死ぬ。生き物は
あぁ、そういえば子を作りたいというのも欲か。ならそもそも赤ん坊はできない。俺たちが存在する大前提すらも揺らいでいる。
なら植物は、植物はどうだ。植物なら欲を持たないのでは。
「植物だけの世界。になるとか。」
だが、口に出してみるとなんか違う気がする。
「植物、ですか。ですけれど、アバンダルのことはどう説明しますか。」
痛いところをつく。
アバンダルとは植物の中では珍しく生き物を襲う、いわゆる食中植物だ。食虫植物自体は珍しくもないが、アバンダルは食べる虫を選ぶのだ。その理屈もまだ判明していないが、一説によるとアバンダルに思考力があると考えられている。植物の思考力に関してはまだわかっていないことも多いが、植物によくがないと断定することもできない。
欲と思考力とが必ずしも同じとは言えないが、欲についても同じことが言えるだろう。
それが欲に起因するかはハッキリ言えませんが植物も水を求めて根を伸ばしますからね。とゆっくりとした口調で諭すように言われる。
確かにそう考えれば植物にも欲があるのかもしれないが、よく分からない。
「質問を変えましょう。欲はよいものですか、悪いものですか。」
「そんなの、」
当然いいものだと、今までの思考から安易に口にしようとして考え直す。
一番始め、俺は何を考えた。
何かがが食べたい、もっとお金が欲しい、成功したい、見下されたくない、もっと広い土地を、もっと確実な権力。始めに思いついたのはあまりよくない欲だ。
あまりよくない欲だが、これらも確かに欲だ。
悪いもんかよいものかなんて、そんなの分かるわけがない。そもそも善し悪しの基準は人によって違う。
そもそも『よい』ってなんだ。『悪い』ってなんだ。
今はそんなことを聞かれているわけでもないのに、そんな疑問が浮かぶ。
よい、性格がよい、成績がよい、家柄がよい。自分にとってよい結果をもたらすこと。
無理に言語化を試みて失敗する。よい、という言葉を上手く表せない。自分にとっては良いことでも、他方ではよくない思いをすることもある。
それは『よい』なのか。よい。自分にとってだけではなく全ての人が得をすること。
どちらかというと、欲張って逆に何かを零れ落としてしまう人の方が多い気がする。食べ過ぎで太って悩んだり、誰かと比べて落ち込んだり、権力を求めて戦争に手を出したり。それは『よい』ではないだろう。
だからといって、欲を持って損ばかりする訳でもない。
考えれば考えるほど、分からなくなってしまう。考えれば、考えるほど、思考が沼に沈んでゆく。
「そこまでにしましょう。今考えたところで、結論が出る内容ではありませんしね。」
リルのいつもの少し重みのある静かな声が沼から引き抜いてくれる。
「すいません、遊びすぎました。」
もう、にこやかな表情ではない。俺を心配する優しい表情だ。
「遊び。」
遊びだったのか。これが遊びとか冗談だろ。こっちは考えすぎて死にかけたのに。
「すいません。最近疲れていて、なにか気を紛らわしたかったんです。」
それで死にかけたこちらとしては冗談じゃない。
と怒りたくもあるが、リルが忙しいのは事実だ。最近、他地域の戦争でマルンダに移民が増えている。俺のいる孤児院にも新しい子どもが増えている。その疲れをこの程度で癒やせるなら、まぁ仕方がない。
「それじゃ、俺は帰ってもいいか。」
「大丈夫ですよ。報告も終わりましたし。」
そういって自ら扉を開けてくれる。
リルの周りには国王にも関わらず、ほとんど人がいない。だからこういうことも自分でするのだ。
「あぁ、そうだ。今日の質問は次回聞くので考えてきてください。」
扉を閉める直前にそんな物騒なことを言う。にこやかなあの笑顔をたたえた表情を最後に扉が閉まる。
次回、ということは1ヶ月後の定期報告の時だ。それまでに結論が出るだろうか。不安な気持ちで持ち場へと足を向ける。