ドーナツの穴
「ドーナツの穴を食べたい」
僕は最初、彼女は冗談を言っているのだと思った。
「ドーナツの穴を食べたい」
僕は最初、彼女は冗談を言っているのだと思った。彼女は、なんでもない調子で冗談を言って、よく僕をからかうのだ。それも、本気なのか冗談なのかわからない、絶妙なところをついてくるから、始末が悪い。例えば、「玉ねぎを切るときにゴーグルをつければ涙が出ない」だとか「キクラゲは渓流に生息するクラゲの一種」だとか。そうして僕を小馬鹿にして楽しむところが、彼女にはある。
僕は今日、彼女の部屋でぼんやりと怠惰な休日の朝を過ごして、見るともなしにテレビを見ていた。地方の情報番組が流れている。現場の中継が映されて、レポーターがマイクを片手に溌剌と動き回っている姿が見える。どうやら、有名な全国チェーンのドーナツ店が、この近くに開店したようだ。郊外のこの地方では初めての出店になるそうで、ものめずらしさに人が集まり、行列になっているようだった。
レポーターが行列の中の何人かにマイクを向けたところ、待っている苛立ちのようなものはどこにもなく、むしろ待っていることを楽しむかのような、鷹揚とした笑みに溢れていた。休日の朝に相応しい穏やかな空気が、画面越しにでも感じられた。
時計を確認すると、十時を少し回ったところだった。まだ寝ぼけている四肢に鞭打ち、ベッドから起き上がる。遅ればせながら、僕もその理想的な休日に飛び入りで参加することにした。急いで着替えて、荷物をまとめて、出かける準備を整える。
ドーナツ店はここから車で二十分ほどのところだった。行列があるとはいえ、そもそもこの郊外にできる行列なんてたかが知れている。多く見積もっても、一時間も待つことにはならないだろう。今から行けば、昼食に買って帰ってくるには十分間に合うはずだ。行列に並んで買ってきたドーナツを、彼女と共に食べる休日の午後。うん、悪くない。
「あら、もう起きていたの」
顔を洗いに洗面所に向かう途中で、背中越しに彼女の声が聞こえた。物音で僕が起きていることは分かっていたはずなのに、わざわざそんな言い方をすることが少し気に障る。いつも、彼女のほうが早く起きる。僕が起きるころには、彼女はとっくに家事だったり仕事だったりの活動にとりかかっていて、テーブルに残された冷めたコーヒーが出迎えてくれる、というのが常だった。
僕は彼女を無視して、準備を進める。髪を整えて、持ち物を確認する。
「ねえ、出かけるの?」
スニーカーを履いたところで、また彼女の声がした。
「昼食にドーナツを買ってくるけど、ほしいものある?」
「ドーナツ? どうしたの、急に」
「今日開店なんだよ」僕はさっきテレビで見た、ドーナツ店のことを告げる。「行列ができていた」
「行列なら、なにも今日行かなくていいじゃない」
せっかくの気分に水を差された気分だ。彼女は何もわかっていない。行列だからこそ行くんじゃないか。
「こういうのは旬の時に行くのがいいんだよ。善は急げっていうだろ」
「ドーナツに旬はないじゃない」
「いいんだよ、もう決めたんだから。それより、なにかほしいものある?」
じゃあ、と一つ間を置いてから彼女が言ったのが、冒頭の言葉である。言い返すのも億劫で、僕は空返事をしてそのままでかけた。
店に着くと、テレビで見た時よりは控えめな行列が、店頭から伸びていた。開店前に並んでいた人たちが捌けて、昼食用の集まり始めたところといった様子だった。僕は急いで、列の最後尾に並ぶ。
待っている間に、店員がメニューを配ってくれた。これで待っている時間の暇つぶしにもなり、店に入ってからも商品選びがスムーズになるシステムなのだろう。ありがたく、僕はメニューを開いて目星をつけていく。列が進むのを待ちながらじっくりどのドーナツを買うか吟味する。この時間は、悪くない。
そこで、ある一文が僕の目に留まった。一瞬、見間違いかと思い、二度三度と確認したが、間違いない。その一文は確かに、メニューの右端にひっそりと存在した。
『今ならプラス十円でドーナツの穴をありにできます!』
どうやら、彼女の言葉は冗談ではなく、本当に店でドーナツの穴が売っているらしい。そして、この文面から推測すると、「ドーナツの穴」という商品があるのではなく、従来は穴なしのドーナツに、追加のオプションとして穴ありにできる、というように考えられる。
しかし、ドーナツとはもともと穴があるのではないだろうか? メニューにある商品の写真も、一般的なイメージ通りのO字型のもので、中心に穴といえるような空間が空いている。これが「穴なし」の状態とすれば「穴あり」とはどのような状態なのか、想像がつかない。
ドーナツの穴の有無について考えているうちに列は進み、僕はようやく店に足を踏み入れた。砂糖が焦げた、甘ったるい匂いが店内に充満している。僕は人の流れに従い、店頭に並べられた多くのドーナツを自分のトレイに移していく。無地のもの、チョコでコーティングされたもの、クリームを挟んだもの、キャラクターの顔を模したもの。ざっと十個ほどのドーナツを会計まで運んだ。
「穴ありって、どうなるんですか?」
考えても結論は出なかったので、僕はレジで訊いてみることにした。
「はい、ドーナツの真ん中に空間がありますよね。そこに『ドーナツの穴』があるようになります」
「つまり、穴が埋まるってことですか?」
僕の質問に、レジの店員は怪訝な表情を浮かべた。
「いえ、穴はありますよ。穴が埋まったら『ドーナツの穴』がないじゃないですか」
「じゃあどうなるんですか?」
「ですから、『ドーナツの穴』があるようになります」
僕は全くもって納得がいかず、謎は深まるばかりだったが、ここでのやり取りで疑問は解消されそうになかった。実際に見てみるのが一番だろう。たったの十円だ。
「じゃあ、ドーナツの穴ありにしてください」
「お買い上げの商品十三点すべて穴ありでよろしいでしょうか?」
「お願いします」
「少々お待ちください」
そう言うと、レジの店員は一度トレイを抱えて奥に下がってしまった。次のお客様どうぞ、と次が呼ばれたので、僕もいったんレジから退く。その場で五分ほど待つことになった。ドーナツを詰められた箱を受け取り、その場で確認したい衝動を抑えて、家路につく。
結論から先に言えば、実際に見てみても疑問は解消されなかった。ドーナツは全て中心に空間が空いていた。僕はてっきり、『ドーナツの穴』と表現された「何か」をその空間に見ることができると思ったのだが、そこには何もなかった。ただ、穴があるだけだ。試しに穴に指を通してみたが、当然、何かが触れることはなかった。
ここに何があるのだろう? 僕は、じっとドーナツの穴を見つめる。しかし、視線は穴を超えて、その先のカーテンにぶつかってしまう。ここには何もない。ただ、穴があるだけだ。そもそも穴というものはあると言えるのだろうか? 何もない。何もないから穴がある。穴があるなら何もないとは言えないのではないか? つまり穴には穴もない。
なら、一体何があると言えるのだろうか?
「あら、おいしそうじゃない」
僕の混乱などどこ吹く風で、彼女が両手にコーヒーを持ってやってきた。テーブルの向かいに座ると、僕の持っていた無地のドーナツをひょいとつまみ上げた。あ、と言う間もなく、彼女はそれを一口齧る。Oの字を形作っていた円が崩れ、Cのような形になる。
「どうしたの? 変な顔して」
彼女がドーナツを片手に持ったまま訊いてくる。ドーナツの中心からなんらかの物質が溢れだし、空気に溶け出しているように感じられた。
「いや、穴がさ」
「言った通り、穴買ってきてくれたんだね、ありがとう」
彼女は、こともなげにそんなことを言うので、僕は呆気にとられてしまう。
「どうしてそれが『穴あり』ってわかったんだ?」
「どうしてって言われても、そこにあるじゃない、変なこと言うのね」
変なのは僕の方なのだろうか? わからない。『ドーナツの穴』は、彼女にとっては確かにあるという。僕の混乱はますます深まるばかりだ。
おいしそうにドーナツ(もしくはドーナツの穴かもしれない)を頬張る彼女と目が合う。いや、違う。彼女の視線は僕の顔ではなく、腹部に注がれている。僕はなぜだか急に寒気を感じて、手を服の中に潜り込ませた。
掌で腹部をそっとなでてみる。おかしなことに、何も手ごたえがない。自分の体に触れているはずの僕の手は、まるで宙を掻くように、何も捕まえることができずにいた。
「私って、この穴が好きなのよね」
彼女は変わらず、僕の腹部を見つめている。そこに何があるのか、僕は彼女に聞くことができなかった。