朝飯前
扉が開き、男が寝室から顔を出した。どこでも投げ売りされていそうな、安っぽさしか特徴のない、真っ黒なジャージの上下を着ている。額にはうっすらと汗が滲んでいる。ジャージの袖口で、顔をぬぐった。
身体をほぐすように、両腕をまっすぐ伸ばし、背伸びをした。伸びきったときに、つられて欠伸が出そうになって、かみ殺す。伸ばしたまま、腰を支点にして身体を左右に振った。三往復、その動きを繰り返した。それから、肩甲骨の辺りを意識しながら、両肩を大きく回した。ごりごりと、骨が擦れて小気味よい音が鳴る。
窓がどこか開けっぱなしになっているのか、カーテンが大袈裟な音を立ててはためいている。そのせいで、家の中にいても風の勢いが分かる。
男は、また、欠伸が出そうになる。今度は顎の動きが間に合わなくて、抑えられなかった。はう、と間の抜けた声と一緒に、息を吐き出した。誰にも見られていないとはいえ、男はなんとなくばつが悪くなって、頭を掻いた。その拍子に、髪が一本、抜け落ちた。男はそれに気づき、身体をかがめ、それをつまみ上げた。他にも落ちていないか、自分の足元を丁寧に確認する。フローリングの上に、他の毛は見つからなかった。男は少し悩んでから、そのつまんだ髪の毛をポケットにしまった。
男は寝室を出て、リビングを通り、キッチンへと向かう。
いつもの作業に取り掛かろう。男は考える。
流し台から、あらかじめ水につけておいた砥石を取り出した。タオルを水で濡らし、畳んでから、その上に砥石を置く。それから、流しの下についている戸を開き、包丁を抜き出した。ステンレス製の、ありふれた、洋包丁だ。右手で包丁を持ち、刃を前に向ける。こうして持った時に、外側になるのが、刃の表面になる。表八割、裏二割が包丁を研ぐ適切な割合であるため、この確認は重要だ。
男が包丁を研ぐようになったのは、最近のことだ。以前は何の手入れもせず使っていたが、一度試しに研いでみると、切れ味が段違いだった。研がれたものを刃とするならば、研がれていないものはただの棒だ。刃物と、鈍器だ。それほど、その違いは衝撃的だった。以来、包丁を研ぐのは男の日課になった。
五十度ほど傾けて、刃の表を砥石にのせる。一度に全体を研ぐことはできない。刃を四段階に区切って、根元から順に研いでいく。柄を右手で握り、左手の人差し指、中指、薬指を揃えて、研ぐ部分の刃に当てる。右手は動かさず、左手の三本指で前後に動かすことで、刃を研ぐ。研いでいると、黒い研ぎ汁が出て、指先を染める。研ぎ汁がよく出るのは、良い砥石の証拠だ。自然と、男の口元がほころぶ。表の刃が少し裏側に返り、裏を触った時に引っかかるようになるまで、指を動かす。
カーテンとは別の物音が聞こえた気がして、男は作業を止めた。ちょうど、表面を研ぎ終わったところだ。気のせいだろうか。男は気になって、耳を澄ます。しばらくすると、また、物音がした。今度は間違いない。壁に何かがぶつかるような音だ。音は、寝室のほうから聞こえた。
彼女が目を覚ましたのだろうと、男は見当をつけた。寝室に向かい、扉を開く。暗がりの中、ベッドの上で布団がもぞもぞと動いているのが見えた。
もうしばらく寝てていいよ。準備はまだしばらくかかるから。
男はそう言って、扉を閉めた。キッチンへと戻る。
こんな作業は朝飯前だ、と考えながら、男ははたと、時間を考えれば当然とはいえ、まだ自分が朝食をとっていないことに気づいた。
朝飯前の作業を、朝飯前にしている。そんなフレーズを反芻する。
あまりの下らなさに、男は頬を緩ませた。こんな幼稚なことを思いついた自分が、少し恥ずかしくもあった。参ったな、と独りごちる。
寝室からキッチンへ戻る途中、リビングに本棚がある。棚にはずらりと英書が並んでいた。それを見て、男はふと英語を調べてみようと思った。朝食は英語でbreakfastだったはずだ。fastという言葉がついているということは、英語圏で朝食は、手早く済ませるもの、という意味があるのだろうか。それから、「朝飯前」は何と言うのだろうか。あまりに下らないことを思いついたのだから、ついでに、下らない調べ事でもしてみよう、そんな下らない思いつきだった。
本棚を一つ一つ指を差して確認しながら、探した。棚には英英辞典があったが、男は英語が読めなかった。和英辞典は見つからない。どうしたものか、と悩んでいるうちに、携帯電話で調べることを閃いた。男はポケットから携帯電話を取り出し、インターネットに接続した。キーワードを入力し、検索する。すぐに、溢れんばかりの情報が、小さな画面に所狭しと並んだ。便利な時代になったものだと、男は今更ながらに感慨深くなる。
調べた結果、まず、breakfastのfastは「速い」という意味ではなく、「断食」という意味だと分かった。「断食」を「破る」という意味で、breakfastで朝食らしい。ひとつ賢くなったようで、気分が良い。また、英語で「朝飯前」のことはa piece of cakeというようだ。一切れのケーキを食べてしまうくらい簡単な作業、というわけだ。この表現を、男は気に入った。刃物で綺麗に切り分けられた、ショートケーキを想像する。一切れにきちんと苺が一房乗っているように切り分けられた、白と赤の色合いが美しい、ショートケーキだ。「朝飯前」の表現に、ぴったりじゃないか。
小さな好奇心を満たしたところで、さすがに時間を潰し過ぎかもしれないと思い至り、男は作業に戻ろうと、リビングを出た。リビングに置いてあるデジタル時計は、午前四時を表示している。
まだ、寝室から物音が聞こえる。壁伝いに、鈍い音が響く。
キッチンの包丁を手に取って、裏を研ぐ。裏を研ぐ時は、包丁は砥石に対して真横に向ける。裏は表と比べてほとんど研ぐ必要はないため、すぐに研ぎ終わった。仕上げに、鞄から仕上げ用の別の砥石を取り出した。削ったところに砥石を当てて、整える。指で確認し、引っかからないようなら、完成だ。
男は研ぎ終わった包丁を頭上に掲げた。裏返し、翻し、その光沢に目を細める。やり終えた自分の仕事を確かめることで、満足感を覚え、充実感を得た。
再び、男は寝室に向かう。
電灯をつけると同時に、ベッドの上の布団を取り去った。途端、汗臭さが男の鼻をついた。口元はガムテープで塞がれ、両手首、両足首を縄でベッドに固定された女性が露わになった。男の足元には、つい数分前に男が女を縛るために使った、縄とガムテープが転がっている。女はもがいていたせいか、全身に汗をかいており、衣服を濡らしている。長い髪は湿ついて、顔にべっとりとへばりついている。
一際強い風が吹いた。風が窓を叩き、がたがたと部屋を揺らした。寝室にいても、カーテンがはためく音が聞こえた。
女は充血した眼で、男を見つめる。必死に懇願しているようにも、怒りをぶつけているようにも、見える。口元を動かしているが、ガムテープで塞がれているため、声にはならない。男の耳に届くのは、女の荒い鼻息だけだ。
その鼻息を聞き、男はぞくぞくとした、えも言われぬ感覚が背中を這うのを感じた。背筋を通り、全身に伝わる。男は思わず身体を震わせた。震えを抑えるように、肩を抱く。感情の高ぶりのあまり、肩で息をしている自分に気づく。できるならば、いつまでもこの瞬間を味わっていたい、男はそう思った。しかし、そうはいかない。日が昇り、付近の住人が目覚め、行動を開始する前に、この家を出なければならない。誰かに見られると、面倒だ。
お待たせ。準備は終わったよ。
男の言葉に、女性はひときわ眼を見開いた。狂ったように、眼を血走らせて、顔を振る。懸命に身体を動かそうとするか、縛られた身体では身動きが取れない。精々、壁に身体をぶつけるのが関の山だ。女が身体をよじり、ベッドが軋む。それだけだ。
男は、その動きをじっと観察していた。女の絶望的な気持ちが、動きから、表情から、臭いから、生々しく男に伝わった。性的快感にも似た高揚感で満たされる。その興奮を噛み締めながら、男はケーキを切り分けるように、ゆっくりとした動きで包丁を女に当てる。