永谷遠子の眠れない夜
どこか遠くで
呼ばれている
ような
かすかな
耳鳴りが耳に残る
ふわふわと、ぼやけた感覚
ゆらゆらと、たゆたう意識
それらが少しずつ認識できるようになる。
永谷遠子は、それらを丁寧に丁寧に、
脆いガラス細工のように、そっとしまっておいた。
触れないように。見ないように。でも、
こうしてうっすらとでも意識してしまっている時点で、もうだめなんだろう。
睡眠という海原へと流されかけていた遠子の意識は、長い間どっちつかずで漂っていたが、ついに浜へと打ち上げられてしまった。
感覚が、意識が、活動を再開する。
もう何度目だろう。記憶はあいまいで、見当もつかない。
思えば、昼間に寝てしまったのがそもそもの失敗だった。
今日は大学の試験があり、試験勉強のために前日は夜遅くまで起きていた。今日の試験である東洋史の教授は試験範囲を示してくれず、テキストのどこを勉強すればいいか皆目見当がつかなかった。ノートを参考にしても、授業は氾濫する川のようにあるべき道程から外れ、試験範囲がさらに広がるばかりだった。
どうにか午前の東洋史の試験を乗りきり、残りは明日の英語の試験を残すのみとなった。辞書持ち込み可の試験で、落ち着いてすれば問題ないと聞いている。だから今日の遠子がすべきことは、明日を万全に迎えるために穏やかに過ごすだけだった。
まさか、昼に一時間の仮眠をとったせいで、眠れない夜を過ごすことになるとは思いもしなかった。
無力感。
眠れない自分を、遠子はどうすることもできない。浜でじっと、睡魔の波がさらいに来てくれるのを、ただ待つことしかできない。無闇に感覚を刺激してしまわないように、それだけ注意を払う。感覚がひとたび外部に反応してしまうと、すぐに海は干上がってしまう。そうなれば、再び海が満ちるところからのやり直しとなる。そこだけ気をつけ、ただ、波を待つ。
視界は暗い。瞼の裏の暗闇の中に、ナツメ球の穏やかな橙色が薄っすらと感じられる。今何時なのかは気にはなるが、視覚の刺激は強過ぎる。目を開けてしまえば、意識はより鮮明になり、後悔するのは明らかだった。
何もすることがない。
いや、してはいけない。
そうなると、逆にこの状況でもできることをどうにかして探したくなってしまう。
少しして、遠子は羊を数えはじめた。眠れない時にできることと言えば、これしかない。
羊が一匹……羊が二匹……羊が三匹……
わずかな温もりだけが存在する瞼の裏に、羊を一匹ずつ増やしていく。大きさ1平方センチメートルほどのミニチュアの羊が視界の右端から生え出て、そこから一列になるように左に向かって新しい羊が生えてくる。「羊」と呼んでいるため「羊」と表現するが、それは羊としての輪郭を持っていない。イメージとして羊の具体的な形を脳裏に思い浮かべられるほど、遠子の意識は働いてはいなかった。あくまで、暗闇のその空間に、「羊」が存在すると認識しているだけだ。輪郭さえ持たない、数えられるための記号としての羊。その認識上の羊がどんどん、瞼の裏に敷き詰められていく。見えない記号で埋められていく。
羊が八匹……羊が九匹……羊が十匹……
そこまで数えたところで、羊が暗闇の左端にぶつかった。これ以上横へは広げられそうにない。すると、次の羊は十匹目の羊の背中から生えてきた。その次は九匹目の背中から、その次は八匹目の背中からといったふうに、羊の波を逆向きに変えてまた増えていく。一匹目の羊の背中に二十匹目の羊を生やせば、また逆戻り。左向き、右向きと羊の増えていく方向は波打ちながら、認識上の羊が満ちていく。原稿用紙のマス目のように、ぎっちりと並べられていく。
羊が五十八匹……羊五十九匹……羊が六十匹……
六十匹目の羊が視界の隅に届いた瞬間、視界の枠組みが取り払われた。縮尺が大きくなり、それに伴い一匹当たりの羊の大きさは半分ほどになった。また、羊を並べていた枠組みがなくなったため、秩序ある形が崩壊した。ぎっちり並んでいたのが崩れて、棒倒しの砂山のような、羊の山ができた。六十一匹目の羊は生える場所を失ったため、何者かに放られたように、上から落ちてくる。羊の山の中に埋まり、その瞬間から六十一匹目の羊としての認識は失われる。羊の山は次々と新たな羊を飲み込んでいき、大きくなっていく。まるで、羊を食べて成長する怪物のようだ。記号としての羊の集合体が次々と仲間を飲み込み、成長する。
羊が三百八十七匹………羊が三百八十二匹………羊が………
羊の山が大きくなり、縮尺が大きくなり。その流れを繰り返すうちに、
睡魔の波もだんだんと大きくなる。少しずつ、海へと引き摺られていくのが分かる。感覚がぼやける。
羊はどんどん落ちてくる。
ぼとぼと
ぼとぼと
だが、もう数えていられない。認識もできなくなる。
記憶がぼやける。
認識できない羊はその存在基盤が失われ、
消滅し
暗闇に溶けるように、
羊が失われていくそれと同じように、
遠子の意識もまた
次第に溶けて
夢の世界へと
落ちよう
と
した
その時、
ぐいっと、
身体が引っ張られるような感覚。
睡魔の波に逆らうように、何者かが遠子の意識を沖へと引っ張っている。
何だろう、と考えても、今の遠子にはそれが認識できない。
遠子の瞼の裏は何もない暗闇だ。ナツメ球の穏やかな橙色を薄っすらと感じるだけの、ただの暗闇。ただ、それだけ。
何重にも塗り重ねられた記号が、認識されることはない。
どこか遠くで
呼ばれているような
かすかな
耳鳴りが耳に残る