楓 1
茜色の空に大きな月が昇っていた。白雲のベールを被い、まだうっすらと、けれど確かな存在感を持って浮かんでいた
眼下の水田では、金色の稲穂がさやさやと流れている。それはまるで輝く川のように見えた。とても綺麗で……
月は綺麗、風は心地良い。分かる。でもそれは本で読み、人に聞いてそうだと認識しているだけ。私には綺麗とも心地良いとも思えない
勉強も運動も男も女も、家族に対してだって興味を持てなかった。人格障害、例えばスキゾイドパーソナリティ障害を疑ったけれど、私は彼らと違い、自分の事が一番興味なかった
誰かが近くに居ても居なくても、悪意や欲情を持たれていてもどうでもいい。殴られたら痛いし、犯されたら気持ち悪い。だけれど、それでも私はその相手に対して何かを感じる事がない
どこか壊れている、そう思った。人間は機械のようなものだから、きっと一ヶ所重要な部分が壊れていたのだろう
壊れているのなら、いらない。私はいらない
『それなら俺のものになってよ』
あの日の言葉と声が自分を壊したいと思う度に、頭の中で響く
「……うるさいな」
君はいつだって私を苛立たせる
8年前。夏休みも半ば頃、東京に住む親戚が初めて家にやって来た。親と一緒にではなく、子供達三人だけで
『こんにちは、楓お姉ちゃん!』
三人の中で最年少だった恭介は、離れた場所で本を読んでいた私にわざわざ近寄り、屈託ない笑顔を向けた
『ええ』
僅かに一瞥し、視線を本に戻す。彼と話すより、つまらない本を読んでいる方がまだ有益だったから
『楓お姉ちゃんは何読んでるの?』
『本』
『そっか! よいしょっと』
『……なんで横に座るの?』
『楓お姉ちゃんの側に居たいから。駄目かな?』
『好きにすれば』
『うん!』
『…………』
嬉しそうな声を聞いて、私は無意識に眉をひそめていた。肌や髪がちりつく奇妙な感覚がして、私は二回頭をふった
『楓お姉ちゃん?』
『なんでもない』
なんでもない。もう何も感じない
私は本を閉じ、自分の部屋へ戻る事にした
君と出会った日から季節が何度か通り過ぎて、私は中学生となった。この時、君はまだ小学生だったね
『久しぶり楓さん』
私より少しだけ背が高くなった君は、幼い頃と変わらない幸せそうな笑顔を私に見せる。不快だったよ、凄く
もし目の前で私が犯され、そして殺されたなら。君はどんな顔をするだろう?
見てみたい。その顔を見れたなら、きっと私は……
『…………ん』
体が疼いた。爪先から局部へ向かって虫が這いずってくるような、おぞましい疼き。信じられないけれど、それは欲情だと言えた
『……楓さん? どうしたの?』
欲情は私の中へと入り、理性を食らう
『……明日さ』
『ん?』
『二人だけで遊ぼうよ』
『うん、いいよ! 楓さんと遊ぶの初めてだなー』
『待ち合わせしよう』
『待ち合わせ?』
『地図書いてあげるから、明日の朝10時、そこに一人で来て。他の人には内緒だよ?』
『わかった!』
恭介は嬉しそうに返事をした。あの時と同じ声……
『楓姉ばっかり話しててずるい!』
無意識に下唇を噛んでいた私は、焦れた椿の声でその行為に気付く。恭介は嬉しいような困ったような、曖昧な笑みを浮かべていた
『あたし達も恭と遊ぶの! ね、梢』
『あ、遊ぶ……の』
椿に返答を求められた梢は、逡巡するようにもじもじと足を擦り合わせ、椿の後ろに隠れながら小さく頷く
『うん、よし! 遊ぼうぜ二人ともー』
『うん!』
『なの』
『お姉ちゃんも一緒に遊ぼうよ〜。ね、お願い!』
『……いいよ』
『やったぁ! 麻雀、麻雀!』
『ま、麻雀か〜』
『ぴんふ……すき』
『…………』
もし明日私が帰って来なくても、それは壊れた人形が棄てられただけだから。だから――
『さようなら』
これで終わり
麻雀を終えて部屋に戻った私は、机の棚から竹沼と書かれた、品のない装飾の名刺を取り出す
数ヶ月前から私に付きまとい、一度は車内に連れ込もうとした男の名刺。この辺りでは、特に危険な人物として名前が上がっている
『はいはい~誰~』
非通知で掛けると、寝ぼけているような低い声の男が出た
『楓』
『楓? ……楓! なになに、デートしてくれんの?』
『デートじゃないよ』
『じゃなーによ。ぶっ殺してほしい奴いるとかー?』
『君、私を犯してよ』
『はぁ?』
『乱暴に。何度も何度も。私が泣いて壊れて死んじゃうぐらい、いっぱいセックスしようよ』
『……今から?』
『明日。朝10時10分前。橋の側の廃校で。人、あんまり来ないし』
『朝早っ! 俺、起きれるかなぁ』
『なら別の人にするよ』
『あん、まって、まってって! ちゃんと起きるからって!』
『そう』
『あーやっべー寝れねー。つかもう一本いくしかなくね? へへへへ〜』
『じゃあ』
電話を切り、ベッドに入る。そのまま目を閉じて眠った