夏紀編
「……暑いわ」
大学の講義が終わり、アタシは駐車場へと向かう。本館から駐車場までは直射日光を浴びながらの100メートル、もう死にそう
「あ! 夏紀さ〜ん」
後ろから誰かに呼ばれたけど、立ち止まって振り返るのが面倒だから無視ね。今のアタシには余計な行動をする体力がないのよ
「あれ、聞こえてない?」
「人違いじゃない?」
「そんなことないよ。あたし、夏紀さんの後ろ姿に関してはちょっとしたものだよ?」
「意味分からないから」
風に乗って聞こえてくる会話で、アタシを呼んだのが誰だかが分かった。アタシは渋々手を上げて振り向かないまま手を振った
「ほら、やっぱり夏紀さん! さようなら〜」
「後ろ姿が渋すぎね、あの人。ほらもう良いでしょう、あたしらも急がないと。行くよ」
「は〜い」
二人の気配がなくなり、アタシは歩く速度を落とす。手を上げた事によって体力の限界は近付いていた
「……ビール」
飲みたい。ギンギンに冷えたビール。冷えた日本酒でも良い。ううん、この際ウォッカでも泡盛でもメタノールでもチタノールなんでもいい。でも――
「…………ハァ」
アキ達に約束したもの。飲めないわ
「……ぐす」
早く帰ってアイス食べて恭介でも蹴っ飛ばしながら寝よう
駐車場に着いてドアの鍵を開けた時、電話が鳴った。アタシは車に乗り込み、エンジンをかけながら電話に出る。もちろん冷房は即オン
「もしもし?」
「は〜い、母さんで〜す」
「母さん? どうしたの?」
「夏紀はそろそろ帰る頃よね〜。帰りにいつもの商店でネギと木綿豆腐を三丁買ってきてくれるかしら〜」
「え、ええ。わかった」
「ありがと〜。それじゃ気をつけて帰るのよ〜」
それで電話は切れ、アタシは溜め息をつきながらアクセルをゆっくり踏む
父さんが居なくなってから、アタシが買い物に行く率が高くなったわね。めんどくさいやら頼りにされて嬉しいやら。それにしても……
「なんで帰る時間が分かるのかしら?」
かれこれ22年一緒にいるけど、未だにあの人の事が分からない。父さんよく結婚したわね
「いつもの……か」
いつもの商店と言うのは、家から一キロ程離れた所にある赤石商店。そこには野菜だけでなく、酒や煙草、日常品なんかも置いてある。そこの店主はアタシや母さんに下心ありまくりのスケベオヤジで、アタシ達が行く度に色々オマケしてくれるのよね。……主に酒とか
「…………ハァ」
最近、溜め息が増えたわねアタシ
大学を出て国道を30分ほど走り、細かい道に入って15分程度、都営団地の側に赤石商店がある
2台しか止められない駐車場に車を入れて、降りる。太陽は相変わらず攻撃的だ
「いらっしゃい。おお、夏紀ちゃん! 久しぶりだねぇ」
店の自動ドアを通ると、レジ前にいた店主、赤石さんがアタシを見付けて破顔一笑。アタシは軽く会釈をして、ネギと豆腐を探しにいく
「近ごろ来てくれないから心配したんだよ〜。お母さんの方はよく来てくれるけどね。あれ? 夏紀ちゃん胸また大きくなった?」
「はいはい、大きくなった大きくなった」
アタシの後を付いてくる赤石さんを適当にあしらいながら、目当てのものを見付けて手に取る。これでいいわね、さっさと帰ろ
「赤石さん、レジお願いします」
「おや? 今日は酒買わないのかい? XO安くするよ〜」
「ぐっ……アタシ、お酒止めたんですよ。百害あって一利なしですから」
微笑みながらそう言ってやると、赤石さんは口を開けて絶句した
「……なにか?」
「ど、どうしたんだ夏紀ちゃん? ま、まさか腎臓癌!?」
「いいえ、違いますわよ。健康のためですわ、おほほほほ」
失礼なオヤジね!
「なら飲まなきゃ! 酒は百薬だよ、心の友だよ! 愚痴を言わない愛人だよ!?」
「こ……」
この野郎! とぼけたマ〇オみたいな面してアタシを誘惑するつもり!?
「さぁ飲みなよ。ほら、今おじさんが美味しい美味しい琥珀の雫を注いであげるからね」
「だ、だから!」
「ほぅら、レミーマルタンちゃんだ。甘〜いモダンジャズのような香りだ。金色に輝いて綺麗だね〜」
赤石さんはXOのフタを開け、酒のオマケとして付いてくるコップに注ぐ。エネルギッシュでセクシーな香りが鼻腔に広がった
「ほぅら、ほぅら〜」
「あ、ああ……」
ヤバいわ、マリ〇のくせに男前に見える。アタシ落とされちゃいそう……
「よーし、その生意気なおっぱいをタッチでこのXOを一本丸ごと無料サービスだ! 生チチなら更にもう一本サービス!!」
生チチで二本……ふん、安くみられたものね。せめて三本――
「なんなら秋ちゃんのチチでもよし! 殆どないけど、あれはあれで」
ガシっ! アタシは右手でオヤジの頬をわしづかんだ
「ぶふ、ふは!?」
「……アキが何?」
アキを侮辱するのは許さない
「ひぃ!?」
本気で怒っているアタシに赤石さんは怯えた声を出す。……まったく
「ほら、とっととレジ打ちなさい」
手を離すと、赤石さんは頭を下げて詫びた
「それ三百円で構わないよ。ごめん夏紀ちゃん、おじさんつい調子乗ってしまったね」
「はい、三百円。セクハラはアタシと母さんだけにしておきなさい」
「ならチチ見せて!」
「ウザい!!」
赤石さんの頭をひっぱたいて、アタシはそのまま店を出る。また余計な体力を使ってしまったわ……
「……ハァ」
もう何度目になるか溜め息をつき、車に乗り込む。そして運転を再開した
それから僅か数分で家に着き、車を駐車場に入れて玄関に行く。鍵を外して中に入ると、部屋の涼しい風が外へ逃げていった
「ふ〜。涼し」
さ〜アイスたーべよ
カチャ
「あら?」
恭介の部屋の前を通り掛かった時、ドアが開いた。そしてそこから恭介がひょっこりと顔を出す
「お帰りなさい、お姉ちゃん」
「ええ、ただいま……ん?」
お姉ちゃん?
「今日は暑かったでしょ? お疲れさまでした」
「え、ええ……恭介?」
「なーに、お姉ちゃん」
「う!?」
な、なにコイツ。なんだかいつもより可愛い?
「お姉ちゃん?」
アタシを見つめるつぶらな瞳。まるで昔の恭ちゃんみたい……あれ?
「アンタ、今日は珍しく目が生きてるじゃない。どうしたのよ」
生きてるの見るの、何年振りかしら
「え? う、う〜ん。へ、変……かなぁ」
「っ!?」
困ったように小首を傾げる姿が本当に可愛い。抱き締めたくて、胸がウズウズする
「んん?」
「ハァハァ……は!? あ、アタシ、いったい何を?」
恭介の体に伸ばしかけた両腕を引っ込めて、アタシは後ずさる。……おかしい。今日のアタシもコイツも何だかおかしい!
「大丈夫、お姉ちゃん? 何だか具合悪そう……」
「だ、大丈夫! 元気だからほっといて!!」
これ以上ここにいるのは危険だわ。早く部屋に逃げないと!
「大丈夫なんだ。よかったぁ」
「…………え?」
「お姉ちゃんが元気ないと、悲しいもん。だからよかった」
恭介はニコニコと笑う。普段ならニヤニヤって感じでムカつくのに……
「……き、今日は本当に変ねアンタ。ま、まぁどうでもいいけど」
「え、えへへ」
「…………」
ごまかすように笑う恭介が、なぜだか雪葉に見える。本格的におかしいわね、今日のアタシは
「……部屋に戻るわ。悪いけどネギとか母さんに渡しておいて」
「う、うん」
「お願いね」
きっと疲れているのね、少し横になろう