そして何故か燕
他の家がどうかは分からないが、少なくとも私の家は厳しかった
物心がついた頃には、朝四時に起き、七時の朝食まで舞踊の稽古を行う事が習慣となっていて、その稽古で私のやる気が無いと師匠である母の目に映れば、学校へ行く事を許されず、食事抜きで稽古を続けさせられたものだ
夕方は生け花やピアノと言った、舞踊以外の教養を詰め込まされる
夜は基礎体力を養うトレーニング。そして、就寝前に演舞
休みの日など、朝から晩まで稽古、稽古、稽古の日々
そんな毎日は、私の精神を強制的に抑制させ、一時は感情すら薄くなってしまった
だから、とは言い訳に過ぎないが、私に友と呼べる者は無く、学校でも家でも必要な事以外は喋らない、無愛想で陰気な女であったと自覚している
『燕。貴女はこの菊水を継ぐ者です。その為、貴女に自由はありません。しかし、それでも貴女は菊水を背負わなくてはならないのです』
『はい、お母様』
『貴女を汚す事は誰にも出来ません。菊水を継ぐ者だけに許される、誇りと伝統が貴女を守るでしょう。それは凡庸な者、いいえ。例え天才と呼ばれる者がいくら追い求めようとも手に入らない、貴女だけの力』
その為には、私の意志など必要無い。私は菊水を背負う為だけに生まれ、菊水を守る為だけの存在なのだから
幼心に、そんな諦めれに近い想いを抱き、私は小学校を卒業する。そして中学へと進学しても、相変わらず友人は無く、いつしか近寄る者さえ居なくなっていた
『菊水さんて何か恐いよね』
『てかアタシらの事なんか眼中に無いって感じでしょ』
人と関わる事を拒否していた私に、友人など作る資格は無い。だからこの会話に悲しむ資格も無い
『菊水の奴また成績トップだってよ』
『家は金持ち、頭は優秀おまけに美人。俺ら凡人とは会話もしたくないんだってよ』
学校でいつも俯いていた
早く学校が終わって欲しくて、早く一日が終わって欲しくて……
いっそ、全てが終わってくれれば……
『……何を考えているのだ、私は』
『何を考えていたのかしら、菊水さん』
顔すらまともに見た事が無かった前の席の同級生は、穏やかにそう声を掛けて来た。これが、初めての友であり、親友となった、柊 ゆかなとの出会い
そしてその後、幸運にも私はもう一人の友人を得る。そ、そして、こ、恋人なんてものも得る機会があったのだ!
『……燕』
『うん? どうしたのだ秋』
『今日、私の家に寄れる?』
『ふむ。20分ぐらいならば余裕があるが』
『……良かった。燕にあげたい物があるから』
『わ、私にか?』
何故だ? そんな疑問が顔に浮かんだのか、秋は微笑み
『……誕生日』
と言った
『あ!? そ、そうだったな、すっかり忘れていたよ。……すまない秋。こんな時、何と言ったら良いか分からない』
『ん。……ありがとう』
『あ……。ありがとう、秋』
秋に連れられ、彼女の家へと入る。秋の家は何故かいつも温かく、訪れる度に私を落ち着かせてくれた
『先に水を貰っても良いだろうか』
緊張し、喉が渇いてしまったのだ
『……冷蔵庫に麦茶ある』
『ありがとう』
勝手知ったるなんとやらと言う奴で、秋を先に部屋へ行かせ、私はキッチンへとお邪魔する
冷蔵庫を開け、コップを拝借し、麦茶を頂いていると、ドアが開く音がした
『ん?』
秋かと思い、視線を移す
視線の先には、驚いた顔をした少年の姿だった……いや、歳は変わらないのだがね。後でびっくりしたよ
『君は秋の弟かな』
顔は余り似ていないが、雰囲気が似ていた。優しくて穏やかな、雰囲気だ
『は、はい、そうです……貴女は?』
この時、恭介は緊張していたのか声が若干震えていた。私も緊張していたのだが……
『私は秋の友人で菊水 燕。宜しく』
『よ、宜しくお願いします』
戸惑いながらも、しっかりと私の目を見て話す恭介に、私は好感を覚えていた。だからなのか、それとも秋の弟だと思っていたからなのか、私は普段、尋ねる事が無い事を恭介に聞いていた
『君の名前を聞いても良いだろうか?』
『恭介と言います』
『恭介君か、良い名前だと思うよ。響きが綺麗だ』
うん。良く似合っている
『燕も可愛いと思いますよ』
……いや、此処から先は余り思い出したく無い。私の人生の中でも、最大級の失敗だ
逃げるように化粧室に篭った後も、暫くの間は顔のほてりが収まらず、ようやく落ち着いた頃に、二人は私の誕生日を祝ってくれた
あれは不意打ちだ、不覚にも涙が出てしまったじゃないか
しかしそれからだろう、私が私自身の事を気に始めたのは
今まで適当に切っていた髪は、少し高いが腕の良い美容師がいる美容室へ通うようになり、服にも多少だが気を使うようになる。今までの私からすれば考えられない事だ
全く。君が何気なく言った言葉は、私の中でこんなにも革命を起こしたのだぞ
……いきなり可愛いだなんて、卑怯じゃないか
『遊びに行こう、菊水さん』
『優し過ぎるんだよ、燕さんは』
『好きだぜ燕』
君に名前を呼ばれる度、私は菊水から離れて行って、失ったはずの燕を思い出す
『不器用で可愛い俺の燕だ』
……うん。私は君の燕
『君が好きだよ、恭介』
大好きだ
「ん? どうした? 俺の顔に何か付いてるか?」
「いいや、いつも通りの君だよ。敢えて言うならば、さっき食べたうまか棒が付いている、と言った所だろうか」
「早く言えよ! ぐううう、荷物のせいで両手が使えん!!」
「ふむ。私が拭こう」
「い、良いよ! 後で拭くから!」
「遠慮しないでくれ。どれどれ」
私は最終的に菊水の方を選んでしまい、君の元から離れてしまった
君を信じていたはずなのに、結局私は一人で勝手に決め、勝手に去って行く
狡くて弱い私に、君は相応しく無い。君ならばもっと素敵な女性が現れるだろう
だから私は……
諦め切れなかった。
君が好きだったから。本当に好きだから
『なら頑張らないとね。今まで貴女は人との関わりを、貴女自身を頑張ってこなかったんだもの、一度ぐらい本気を出さければ恭介君に失礼よ』
『……ああ、その通りだな』
ありがとう、ゆかな
『私の……燕の本気を見せてやる!』
諦めんぞ、私は!!
「いて、いて、いてぇ〜!! 何でそんなに力いっぱいで拭くんだ〜!」