第1章-4
篝火が揺れる洞窟内は、冷気が漂っている。溶ける事の無い氷が覆い付くし、誰をも拒む。
洞窟の最奥。氷壁の中に男がひとり。
黒衣に身を包む、長く美しい金の髪が扇状に広がっている。手は腹部で組まれ、閉ざされている瞼を隠すのは黒糸のレース布。
―カツン…
ひとりの男がどこからか侵入を果たす。おぼろげな眼差しで氷壁を見上げたその男は、氷の中の男と同一の存在。
冥幻魔界を治める凍土の世界の主、ロイウェン・グロウ・オーサ=リィン。魔皇の名を持つ唯一の男。
男、ロイウェンは氷壁の前に作られた大きな氷の玉座に腰を下ろすと、深く息を吐き出し、ゆっくりと横たわる。
決して開く事の無い氷付けの扉をぼんやりと見ていたが、子供のように蹲り瞼を閉ざすとその体は漂う冷気に紛れるように消え去った。
部屋には元の静寂だけが訪れる。
***
康泰は五日もの間、酷い眠気に襲われていた。日の大半をベッドの上で過ごすほどに。
原因は存在が揺らいでいるからだとミオンは眉尻を下げていた。
「わたくしが目覚めてすぐに無理をさせてしまったばかりに…」
「気にする事は無いよ…ふあー…」
大きな欠伸をした康泰は、襲い来る眠気でとろりとした眼差しをベッド側の椅子に座るミオンへと向けた。康泰の枕元ではリィがくぴくぴと小さな鼻提灯を作っている。リィもまた魂を改変した為、存在が不安定で康泰同様に日がな一日中鼻提灯を作っている状態だ。ミオンが言うには、康泰が安定するのに比例して、リィも安定していくのだとか。
康泰は眠っていると思っているのだが、実際は仮死状態に近い。康泰の意識が無い間、呼吸も脈拍もほとんど無いのが実状である。無意味に不安を煽りかねないので、ミオンもシュノアも口には出さない。
ふと、ミオンが白湯を注ごうと目を離した途端、康泰の呼吸が深くなる。視線を向ければ康泰の双眸は閉ざされ、深くベッドに沈みこんでいた。
既に見慣れた光景だが、こんなにも睡眠と覚醒が頻繁だと心配になってしまう。
―コンコン
ため息を吐き出してから間を置かず、扉をノックする音が響いた。
「はい?」
「宰相、よろしいか?」
「近衛隊隊長…では、ありませんでした。どうかしましたか、シュノア?」
宰相と呼ばれると、どうしても役職名で返してしまう癖がある。かつて魔皇の近衛隊隊長を務めていたシュノアに対しても例外ではない。
苦笑交じりに言い直せば、顔を覗かせたシュノアも微かな笑みを口元に滲ませた。
「ヴィヴィアン様が来られた。先日の依頼品をご持参されたらしい。今、応接の間にてお待ちいただいているが…」
「えっ、予定より早いですね…わかりました。行きます」
椅子から立ち上がったミオンは、ちらりと康泰の顔を一瞥し、シュノアと共に部屋を後にした。
―ちりん…
どこから現れたのか。ミオンと入れ違いで室内に姿を現した黒猫は、銀鈴を付けたシルクのリボンで首元を飾っている。
足音も無くベッドへと近寄り、ミオンが座っていた椅子に飛び乗った。
『…この方が…』
黒猫の口から零れ落ちたのは、幼い少女の舌足らずな声。ブルーグレーの双眸がゆっくりと閉じ、開いた次の瞬間、黒猫は悲鳴を上げそうになった。
―きゅーん…?
眼前には漆黒の細長い生き物。おこじょのリィだ。感情の読めない円らな瞳を瞬かせながら首を傾げている。
驚愕の為か、焦燥の為か。黒猫は呼吸も忘れて目の前の生き物を凝視していた。リィの口元が威嚇するように牙を剥く。
『ナ、にモノ、か』
たどたどしい言葉がリィの口から零れ落ちた。怒りを隠そうともしない、地を這うほどに低い男の声。
黒猫の体が震え上がり、長くしなやかな細身の尾がぶわりと膨らむ。
今目の前にいるのは、一体なんなのか。自分と同じ従僕魔だと思ったが、それは牙を剥くまでのほんのひと時であった。今、虚無の眼で凝視してくる目の前の獣は、ただの従僕魔ではない恐ろしさを纏っている。
『わ、妾は…』
『いネ。きさマに、我がアルじに近付く資格は無い』
言葉を重ねる毎にそれは流暢なものとなり、同時に毒を孕む。黒猫は恐怖のあまり、自身の影に飛び込み主人の元へと駆けて行った。
リィはしばらく警戒も露わに黒猫がいた場所を睨み付けていたが、背後から声を掛けられすぐさまそちらに意識を移す。振り返れば、眠っていたとは思えぬ強い眼差しをした康泰と目が合った。
―きゃうっ
ひとつ鳴き、リィは軽やかな動作でベッドへと飛び移り、康泰の頬に頭を寄せる。康泰が緩慢な動作で腕をあげ、リィの喉元を擽れば甘えるようにくうくうと鳴いた。犬だった時と変わらぬ甘える声に笑みがこぼれた。
遠くから二つの足音が近付いて来るのに気が付き、ゆっくりと体を起こして訪問者を待つ。
「時間は宜しいのですか?いつお起きになられるか…」
「その時はその時だわ。別にお渡しするのはいつでもいいのよ。ただ、早めに出来上がったし、別件で用があったから来ただけよ」
「別件?」
人間の頃より何倍も鋭くなった聴覚が、兄弟の会話を拾い上げた。どうやら、最短でも七日掛かると言っていた付加装飾具が完成し、私用のついでで持って来たようだ。
がちゃりと扉が開き、入室して来たミオンと目が合った。
「起きてらっしゃいましたか。具合はいかがですか?」
「うん、大丈夫」
「ご機嫌麗しく、コータ様」
「ビビさんも。にしても、隈が酷いですね…」
来訪したヴィヴィアンの美しい顔には、げっそりとした疲労が見て取れる。目の下には濃い寝不足の証。
「久々の貴重素材だったものですから、装飾具作りが楽しくなってしまいまして…この有様ですわ」
お恥ずかしい限りです。
袖で口元を隠しながら笑うヴィヴィアンに、意外とオタク気質なのだなと思いながら康泰も苦笑を滲ませた。
「俺としては助かりますけど、無理はしないでください」
「ふふ、肝に銘じますわ」
笑みを深めたヴィヴィアンはミオンに勧められ、ベッド横の椅子に腰を下ろした。ミオンはその後ろに佇む。
ヴィヴィアンは螺鈿細工の箱を懐から取り出した。手のひらよりも少しばかり大きな正方形の箱の中央には、きらきらと光を散らす六芒星のエメラルド。星の六つの頂点から延びる細い鎖が箱を包んでいる。
「このエメラルドと箱には簡易結界の役目を与えています」
舞い散る光は結界の残滓だと言う。
「コータ様がこれに触れれば結界は崩壊し、付加装飾具の力が御身を包みます。本当は身に着けた時に力が解放されるのが通常なのですが…やはり、私の力であなたの力を抑え込むのは無理でした」
両手を器にするように合わせた康泰の手の上。
ヴィヴィアンが箱をそっと置いた瞬間、エメラルドは僅かに強い光を纏うと鎖と共にほろほろとその形を崩し始め、箱もまたその役目を終えて塵と化し、吹かぬはずの風にさらりと消える。同時に、今までふわふわとしていた自身が、確かに此処に居るのだと明確に感じる事となる。言うなれば、地に足が着いたような、内側から力が溢れ出てくるような。『生きている』と言う感覚。
手のひらに残ったのは、幅広のシルバーバングル。唐草の透かし彫りが美しい。
康泰の眠気はすっかり消えており、バングルを眺めながら数度瞬いた。色々な事に驚いて、一体何に重きを置けばいいのか混乱しているのである。
「うん、イイ感じに馴染んだようですね」
「…ビビ、ひとつ聞いても?」
視線は康泰の手のひらに固定されたまま、ミオンは震える声で満足そうなヴィヴィアンに問い掛ける。
「あなた…一体何の素材を…?康泰様の血は良いとして、わたくしの『欠片』でそのような強い付加装飾具が作れるはずが無い…」
「あら、良く分かったわね」
さすが私の可愛い末弟ねとヴィヴィアンは目を細めた。
「あたしの『旦那様』の装飾具を少しばかり使ったの」
旦那様の言葉に、康泰は魔皇の事だと察したが、どうやら何か違う事情があるようだとミオンの青ざめた顔色で判断した。
この世の絶望でも垣間見たかのように、ミオンの肌が血の気を失って一層白くなる。
「あ、あな、あなた、何と言う…っ」
「別にいいのよ。お前が気にする必要は無いわ」
ヴィヴィアンは強い声と眼差しで、今にも叱責しようとしているミオンに向き直った。
「あたしは『旦那様』から多くのものを頂いた。今も大事に使っているわ。仕舞うなんてもってのほかですもの。でも、ひとつだけ使う事、ましてや触れる事すら出来なかったものがある…あの方の『欠片』よ…」
「かけら…」
ぽつりと康泰が呟く。『欠片』は魂の一部だと聞いた。
「確かに、コータ様の血とお前の『欠片』で製作は可能だったわ。でも、それでは本当に一時凌ぎの装飾具にしかならなかった。コータ様の血であっても、よ」
康泰の力は未知数であり先が読めないのだとヴィヴィアンは言う。
装飾師としての意地もあったのかもしれない。安定させるだけの装飾具とするには素材が良過ぎたのもある。将来的な魔力の制御装置にならないものかと試行錯誤を始めたのが運の尽き。寝る間も惜しんで製作に没頭した。しかし、どれだけ手を尽くしても後一歩及ばない。
「そりゃあね、迷ったわよ。『欠片』は、『旦那様』があたしを愛してくださった証明でもあるもの」
寂しさと孤独が混ざるヴィヴィアンの眼差しに、彼の言う『旦那様』が既に亡き存在だと悟る。所謂、形見を使ったと言う事だ。
康泰は手のひらに鎮座するバングルを見つめた。無機質なそれは、何かを語る訳も無く、康泰の体温に馴染んでじわりと温かいだけ。
「でも、『旦那様』に触れられないのなら一緒なのよね…それに、頂いた『欠片』は二つあったもの。ひとつくらい、次代の皇妃様に差し上げても怒られないわよ。そんな器の小さな方ではないわ」
「ですが…」
「そもそも、もう使っちゃったもの。取り出す事も出来るけど…どうやらコータ様の血と相性が良かったみたいで、取り出した途端にサヨナラよ」
けらけらと笑うヴィヴィアンには、先ほどまでの哀愁はない。寧ろ、どこか清々しささえ感じる。
「で、コータ様は気に入って頂けたかしら?」
紅を刷いた眦と唇が弧を描く。少女のように何かを期待するようなきらきらとした目に、康泰も笑みを浮かべて頷いた。
「もちろん。大事にする」
「ふふ、良かったですわ」
康泰が左手首にそれを着ければ、ほんの一瞬だけ淡い光を放ち、そっとその場に収まった。




