序-2
茜にも染まらぬ明るい空の下、康泰は帰路に着く。
三年に上がる前は固定の部に入らず、様々な部を渡り歩いていたが、友人たちの最後の部活動の邪魔をしないようにと顔を出すのを止めた。友人たちは遊びに来いと言ってくれてはいたが、康泰の意思は揺らがない。
「ただいま」
挨拶をしても誰も居ない事はわかっているのだが、どうも癖づいてしまっていて抜けない。父は海外赴任中、母は康泰が中学に入学してから元の職場へ本格復帰し、一緒に暮らしていた祖母は昨年末に他界。帰宅の際、「こうちゃん、お帰り」と言う祖母の声がないのは未だに慣れないでいる。
ほふりと息をつき、靴を脱ごうとした瞬間。
「お帰りなさいませ、皇妃閣下」
耳元で聞こえた声に肩が跳ね上がり、心臓が強く脈打った。逃げるように玄関の鉄扉を背につける。強かに打ち付けた肘の痛みなど気にはならない。
目の前にいたのは、黒を纏った男。さらりとした黒髪。血のように赤い双眸。雪のように白い肌。
同時に男が人ならざるものと認識する。
黒髪をかき分けて存在を主張するのは、後方に捻れて伸びるムフロンのような一対の角。本来なら白いはずの目玉は黒い。
「嗚呼、驚かせてしまい申し訳ございません、皇妃閣下」
ゆるりと弧を描く唇。
「っ、誰だ…!」
ぞわぞわとした悪寒が背筋を走り抜け、肌が粟立つ。
「嗚呼、わたくしとした事が名乗りもせずに…ご無礼をお許しください。わたくしは魔皇閣下にお使いいただいているミオン・ジェミル=フィニと申します。ミオン、と。ちなみに、『フィニ』とは宰相の意を含みますが、皇妃閣下にも是非ともミオンとお呼びいただきたく存じます」
作りモノのような美しい笑みを浮かべ、ミオンと名乗った男の舌がなめらかに滑る。
「この度は我が主である魔皇閣下が」
「ちょっ、ストップ!」
更に言い募ろうとするミオンの口を、康泰が慌てて手で覆い隠した瞬間。蕩けるような笑みを浮かべていたミオンの顔色が、瞬く間に蒼くなる。
あ、と言う間も無く、ミオンの姿が黒い靄となって掻き消えてしまった。
それを見届けた康泰の顔色も芳しくなく、思考が纏まらない頭が五分にも満たなかった先ほどの非現実的な状況を否定したがっている。しかし、ミオンに触れた手のひらが逃避する事を許さない。未だに残る冷たい感覚。それはミオンの存在が夢や幻などではなく、実在していたという確かな証拠である。
「何なんだ…あいつ…」
言葉に出来ない恐怖に、康泰は鉄扉を背にずるずるとその場に座り込んでしまう。震える手を重ねて握り締め、額に当てて落ち着く為に深く息を吐き出した。
三十分ほどそのままの状態だったが、両手で顔を叩いて小さく気合いを入れると何もなかったかのようにいつも通りの行動をとり始める。
リビングで母親の置き手紙を確認し、風呂のスイッチを入れる。コンロに置かれた鍋と冷蔵庫の中身を確認し、炊飯器のスイッチを押して一息つく為にソファーに腰を下ろした。
己が手を見下ろし、まだ微かに震える指先を握り締める。
「はー…」
再び天井を仰ぎ、視線をおろした瞬間に心臓が跳ね上がり、息が止まる。よく叫ばなかったものだと、後から自分を褒めたほどの驚愕に襲われた。
下ろした視線の先に居たのは、先ほどのミオンと名乗った人ならざる男だった。
「先ほどは誠に失礼いたしました。御身に触れてしまうなど、万死に値する無礼。処罰はいかようにでも」
「えっと、ちょっと待て、待て」
康泰は額を押さえ、手と言葉でミオンに制止を掛ける。それにすぐさま反応を示したミオンは、首を傾げながらも続けようとした言葉を飲み込んだ。
「えと、まず…あんた、人間?」
「いえ、わたくしは魔皇閣下が治める冥幻魔界、ジュノ・ガルディスの住人でございます。簡潔に申せば、異世界人…とでも申しましょうか」
「なるほど、で?日中、うちの学校の女子に入り込んだ?」
「入り込んだは若干の語弊が…操ったと申した方が近いでしょうね」
にっこりと美しいと称するに相応しい笑みを浮かべたミオンに対し、康泰は精神的疲弊がどんどん積み重なって行く。
「あー…うん、まあ、特に彼女に何かあったわけではないから…良くないけど良いとしよう…」
詰め寄っても物事が進展しないと結論付け、康泰は次の質問を考える。
「それで、『魔王』とか『王妃』とか何だ?」
体の小さな震えを見ないフリ、気付かないフリでやり過ごし、最も気になっていた事を問い掛けた。
「閣下が仰る『マオウ』『オウヒ』は僅かばかりニュアンスが違うように思われます」
ミオンが右手を差し出した。ポウンと柔らかな音を奏でて現れたのは水の塊。水はくるりと輪を描くとある形をとった。
「漢字…」
「この文字は閣下の国のものでしょうか?」
「あ、うん…」
水は『魔王』『王妃』の文字を不恰好に模り、ゆらゆらと揺れている。
「閣下が申されているのはこちらの方かと」
「…何か違うのか?」
「わたくしがお呼びしているのはこちらになります」
ミオンが右手と同じように左手を差し出せば、赤い炎が揺らめき、先ほどとは違う漢字を描いた。
「魔皇…皇妃…?」
「冥幻魔界は、この地球とは異なる次元に存在している世界…所謂、異世界となります。冥幻魔界は大きく分けて五つの階層に分かれており、詳細は省かせていただきますが、一の階層から四の階層には各階層を治める王が居り、その方々の事を『魔王』と称します」
ミオンは右手に目を向け、それにつられるように康泰の視線も水で描かれた魔王の文字に向けられた。
「そして、わたくしの申し上げる『魔皇』は彼らと区別する為、『マコウ』とも呼ばれます。魔皇は五の階層、最終階層を治め、冥幻魔界全階層を統治する存在でございます」
次に視線が注がれたのは炎が描く『魔皇』。康泰の視線もふらりと動く。
「また、王妃は各階層の魔王を示します。そして、魔皇の側室である事も示します。つまり、魔王は各階層の管理者であり、魔皇の側室である王妃でもあるのです」
ぽこりと水が分離し、魔王と王妃の間をイコールで繋いだ。
「ちなみに、王妃の事は『ジュエラ』とお呼びいたします」
水が更に分裂し、王妃の横に『ジュエラ』の文字が足される。
「…では、もう一つの皇妃は…?」
「字の如く、皇の妃。魔皇のご正妃にございます。そして、魔皇と共に最終階層を統治する、ファーストレディ…と申し上げれば解りやすいでしょうか?」
ミオンが吐息で笑い、康泰は乾いた笑いを漏らした。
「魔皇や皇妃にも正式な呼び名が御座いますが、その呼び名には強い呪が施されており、特定のお方…つまりは伴侶同士でなければ言葉にする事は出来ません。万が一、伴侶以外の者がその名を口にした瞬間、強力な呪いが降り掛かり…まあ、運が良ければ遺体が残るでしょう」
ざわりと空気が不穏に揺れる。
「運が、悪ければ…?」
震える康泰の言葉にミオンは二度三度まばたきを繰り返した後、妖しい笑みを浮かべた。言葉にせずともその結末を感じ取り、康泰はそっとミオンから視線を外すしかなかった。
「で、本題だが…」
「はい」
「何で俺がその皇妃なんだ?俺は見ての通り男だ。ついでに人間だけど」
当たり前の事を伝えたのだが、ミオンは「それが何か?」と言った表情で首を傾げる。
「我らにとって種族や性差など瑣末な事でございます」
「うん…だが、王…魔皇には世継ぎが必要なのでは?」
世継ぎと言う言葉に、ミオンは得たりとばかりに笑みを浮かべた。
「魔皇と言う玉座は世襲制ではございません。そして、必ずしも魔皇が存在するとも限りません」
統治すべき国が存在するのならば、そこには必ず秩序や抑制が必要となり、その為には指導者もしくは統治者が必須となってくる。全ての統治をする魔皇が居なくとも、冥幻魔界と言うのは存在が可能なのかと眉間に皺が寄った。
ミオンは苦々しい康泰の表情を見上げ、苦笑を滲ませた。
「少々語弊のある物言いでございました。魔皇と成り得る御方は必ず存在いたしますが、魔皇と言う地位に必ずしも就かれるとは限らないのです」
訂正された言葉だったが、康泰の眉間の皺は無くなる事はなく、むしろ増えてしまう。僅かばかり戸惑いを見せたミオンは、眉尻を下げながら康泰の表情を伺い見た。
「それでは、魔皇の世代交代に関しまして説明いたしますが…宜しいでしょうか?」
ミオンの視線がちらりと動く。それに倣うように康泰も視線を動かせば、壁時計が規則正しく時を刻んでいる。
長い時間話をしていると思っていたのは康泰だけだったようで、長針は二〇分ほどしか進んでいない。特に何をするでもない時間帯だ。母親が帰って来るにはまだ時間はある。
「あー…とりあえず続けてくれ…」
面倒な事はまとめて終えてしまいたい。
その裏の言葉が伝わったのか、ミオンは「申し訳ございません…」と微笑んだ。
「魔皇と成るべき存在は、生まれながらにして魔皇たる証を有しております。そして、我ら民は彼の御方が産声を上げし瞬間よりその存在を本能で感じ取ります。ですが、存在を感じ取りはしても誰なのかまでは分かりません。産み落とした母親ですら分かりません。何万と言う子供がほぼ同時期に生まれますからね。魔皇が誰であるのか判明するのは、魔皇となれる御方が最終階層に赴き、城の最奥に保管してある玉座に足を踏み入れた瞬間です。そして、戴冠式が行われ、次代の魔皇がたつのです。玉座に足を踏み入れ、魔皇となれる御方が魔皇になるか否かはその御方次第。魔皇となれる御方がいれば、秩序は保たれるので必ずしもその地位に就くとは限らないのでございます」
「出自とか」
「関係ございません。冥幻魔界には階級がございますが、魔皇はいずれの階級からも産まれます」
なんとなくは分かっても、短い人生で培った常識の外側の話で理解が及ばない。
「…頭痛くなってきた…」
「ふふ、すぐに理解をする必要はありません。これからゆっくりと…」
「え?」
「え?」
ミオンの言葉に康泰は声を上げ、その反応にミオンも声を上げて沈黙が生まれる。二人とも互いの丸くなった双眸を見つめ、再び「え…?」と零した。
「えと…まあ、世継ぎが必要ないのは理解したが…俺である必要もない訳だろ…?わざわざ人間である俺を、そのお偉いさんに宛がわなくても…」
途端、ミオンの顔から笑みが消え去った。美しい造形の真顔は微かな恐れを感じる。
「王妃の方々は確かに誰であると言う必要はありません。高質の魔性、いわゆるカリスマ性を持ち、内に持つ魔力が強い方であればどなたでもなれる可能性はあります。ですが、それはあくまで『王妃』の話でございます」
纏う空気が変わったミオンに、康泰は少しだけ身じろいだ。地雷を踏んだ、と自覚する。同時に、この話は長くなる事を悟った。
死んだ魚のような光のない目をした康泰に気付いたのか、少しの間をあけてミオンはふふっと吐息の笑いを零した。
「まあ、今の皇妃閣下に説明いたしましても、恐らくその重要性をご理解いただけないでしょう。ゆえに、後日、改めてご説明いたします」
「うん…助かる…」
いずれは長い説明を受けなければならないのか、という現実からはそっと目をそらした。