第2章-3
兄弟が苦さを含めて笑い合っている頃、広間を出て廊下を歩いていた康泰はシュノアの提案に康泰は足を止めた。
「コータ様、散歩がてら庭園へと赴いてみませんか?」
「庭園?」
窓の外は荒れ狂う猛吹雪。
城の外へと足を踏み出す事は難しいだろう。そもそも、庭園など造る事が出来るのだろうか。
康泰の疑問を察したシュノアは、笑みを滲ませた。
「数百年ほど前、先代魔皇とヴィヴィアン様が、城から少しばかり離れた場所に光差す庭園を造られたのです。移動も転移陣がありますので、外を歩く必要はありません」
「ああ、それはよかった」
特に急いで何かをする事も無い。僅かに動きの鈍い体のリハビリがてら散歩をするのも良いだろうと考え、シュノアの提案に頷いた。
「では、こちらへ」
シュノアが先を歩き、康泰はその背を追う。
ふと、肩で大人しくしていたリィが何かに反応して顔を上げた。
『主、何やら気配を感じます』
「良く無い感じか?」
その問いに、リィは言い淀む。
『警戒して損はないかと』
「そうか…」
喋る事は出来るが、言葉を紡ぐ事をあまりしないリィがそれを操ってまで注意を促すと言う事は、あまり歓迎された気配では無いのだろうと康泰は察した。
今の自分には、遠く離れた他者の気配を掴む事は出来ない為、自分の従僕魔を信じるしか無い。
「こちらに転移陣があります」
扉の無い小部屋に足を踏み入れれば、部屋の中央に人が三人ほど立てる程の水晶の円台があった。台の表面には転移の為の魔法陣が描かれている。
淡い光を放つそれに立った瞬間、魔法陣が白い光を放った。浮遊感と共に、強い眩暈が康泰を襲う。驚く間も無く、目の前の風景に感嘆の息を漏らす。
先ほどの小部屋と同じような部屋から一歩踏み出せば、緑が溢れ、天井から陽が降り注ぐ色彩豊かな庭園と言うに相応しい世界が広がっていた。
「すごい…」
「ここの木々花々は、皇の魔力を糧に咲きます。外よりは暖かいと言え、植物が咲くにはあまりに寒い地ですから」
「へー…」
足を進め、案内されたのは水の上に佇む西洋風東屋。白亜の石材で造られたそこは、美姫がお茶会を開いていれば何とも絵になる美しさである。康泰が足を踏み入れるには些か勇気が必要だ。
引き返す訳にも行かず、康泰はシュノアに案内されるままに椅子に腰を下ろした。
「飲み物の準備をして参ります。温かいものと冷たいものとどちらが宜しいですか?」
「あー…っと、じゃあ、温かいもので」
「畏まりました」
有能な執事のように恭しく頭を下げ、シュノアは康泰の前から辞する。
ひとりで何をする訳でもなく、周囲を見渡した。
何処から入り込んだのか、柔らかな風が不規則に頬を撫で、微かに聞こえる水流の音が心地好い。
「長閑だな…」
外が吹雪いているとは思えぬほど、緩やかな時間が流れる。
テーブルにリィを転がしてその腹を擽っていると、不意にリィが立ち上がってガゼボの天井を見上げた。
『主、来ます』
「ああ」
急速に近付いて来る気配に、康泰も気が付いていた。何か遮断の術式でも展開をして入るのか、シュノアが戻って来る気配は無い。
面倒だなとため息を吐き出しながらも康泰はリィを肩に登らせて席を立ち、先ほど歩いて来たガゼボと陸地を繋ぐ橋に出てついと天を仰いだ。外界を遮断するのは、ガラス。その奥に流星を見る。
凄まじいスピードで下降してくるのは、星ではなく人型の魔族。長い髪が尾となって、流星と言うよりは彗星のようだと思いながら康泰はガラス越しに闖入者を見上げた。
「リィ」
その一言で主人の意思を汲み取った従僕魔は、きゅいとひと声上げて康泰の肩から宙に舞う。
―ガシャアアアアン!
派手な音を立ててガラスを粉砕して、庭園へと侵入して来たのは少女。
その瞬間は、康泰の目にはスローモーションだった。
砕け散ったガラスの破片がきらきらと煌き、それを突き破った少女の周囲に舞う。
康泰の目前に迫ったのは、生気の薄い白い肌の少女。鬼気迫る表情で瞠目する星を閉じ込めた美しい碧眼。白銀と見紛うばかりの艶めく純白の髪。
少女と康泰の視線が交わった瞬間に膨れ上がった殺気。
しかし、それは康泰に届かない。
―グオオオオオッ!
獅子の如き咆哮だった。リィの放った咆哮は衝撃波となって少女を襲う。
小さな体は容易に宙を舞った。だが、少女は花びらのような軽やかさでふわりと地面に足を着いた。
互いに無言で対峙する。
「獣風情が…妾に無礼を働く汝は何者ぞ。なにゆえ凍土の庭に居るのじゃ」
佇まいは上品ながらも不遜な物言いをする少女に、康泰は少女の双眸を見下ろした。
「無礼はどっちだ。人様の建物を破壊しといて、お嬢さんは何様だ?」
少女の姿と言えど、相手は魔族。気を抜けばすぐに食われてしまうだろう。足を駆け上り、康泰の肩に戻って来たリィもひたりと相手を見据えて警戒している。
少女はゆっくりと瞬きをした。瞼が押し上げられた瞬間、碧眼の奥が一瞬だけ金色を宿したように見えたが、見つめてくる双眸は美しい碧。
「メリディア・ファラス=ジュエラ」
『王妃』の名に、康泰は舌打ちをしたくなる。今会うべき相手では無いと分かっているが、出会ってしまったからにはどうにかしてこの場を切り抜けるしか無い。
「誇り高き吸血鬼一族の王にして、この冥幻魔界の風天区域(第一階層)を統べる王、そして、麗しき我が君の王妃である」
再び碧眼が金色を滲ませた。先程よりも強い光だ。その瞬間、康泰の視界が歪み、酷い眩暈が襲い来た。崩れ落ちそうになるが、ここで膝を付くと危ないと察した康泰は奥歯を噛み締め踏み止まる。
少女、メリディアの双眸が愉快げに弧を描いた。
「ほう…妾の魔力に屈さぬか…」
とろりとした甘やかな微笑みは妖艶さを増し、康泰の意識に靄が掛かり始める。
「…礼儀のなって無い王様め…」
忌々しく吐き出した。意識が遠退きそうになる中、不意に左手首が熱を持ち、体内の魔力の巡りが活性化するような感覚に包まれた。
熱源はヴィヴィアンに製作してもらった付加装飾具。眩暈と共に滞り始めていた魔力が正常に循環を始め、次第に意識もはっきりし始める。
「ビビさん様様だな…」
ぽつりと呟き、視線をメリディアから外さぬままバングルを右手で撫でた。バングルに熱はなく、ひやりと冷たいままそこに在る。
いまだ自我を保つ康泰に対し、メリディアの表情が歪んだ。
「なんと、妾の『誘惑』を退けるとは天晴れよな」
口元を指先で隠してころころと笑うメリディアの目が、新しい玩具を見つけたと言わんばかりに輝いている。笑ってはいるが肌を刺すのは明らかな憤り。それを証明するように、足元に散らばるガラスが弾けて更に粉々に砕かれている。
これは面倒な事になって来たと康泰が表情を歪めていると、冷たい風が頬を撫でた。割れた天井から入り込むのとは違う、氷の気配に康泰もメリディアも動きを止めた。
「嗚呼っ、この気配…!」
メリディアの声が歓喜に濡れる。
しかし、少女は気が付いた。身動きが取れない。足元に目をやれば、ピシリと音を立てて床が凍り、地面に縫い付けるように足をも凍り始めていた。
「な、なにゆえっ、我が君!なにゆえじゃっ!」
メリディアが天を仰いで叫んだ。髪を振り乱し、『我が君』を見つけようと必死になっている少女を眺め、康泰は自身の足元に視線を移した。康泰の足も凍結し、膝まで氷に覆われている。
だが、明らかに少女を包む氷の侵食の方が早い。既に胸まで達し、康泰に目を向ける余裕など無いように見える。
「依怙贔屓もここまで来ると逆に清々しささえ感じるな…」
呆れたように呟く間に、メリディアの悲痛な叫びが掻き消え、康泰の視線の先には、透明な氷が造り出した少女像。柔らかな風が仕上げとばかりにその表面を撫でれば、氷像はざらりと音を立てて崩れ落ち、細かな欠片が小山を成す。
「えっ?」
呆然とした呟きが康泰から零れ落ちる頃には、小山の下層はじわりと溶けて床を濡らしていた。




