第2章-2
康泰の言葉にシュノアは苦笑を滲ませながらも頷いた。
「あなたが皇妃である可能性はあるかもしれませんが、そうで無い可能性も捨てきれ無い。…しかし、私もヴィヴィアン様もあなたと対面して、その足下に傅く事を決めました」
魔族が傅くには様々な理由が存在する。己より強い者への服従、愉快を求むる享楽、弱者への憐憫など、数え上げれば切りが無い。
「私を含め、誰もが明確な理由を持たない。強いて言うなら…そうですね、本能がそうしろと我らを動かした…まあ、あなたからすれば、喜ばしい事ではないのでしょうけれど…」
口を噤んだシュノアはそのまま立ち上がり、忠誠の騎士のようにベッドの傍に片膝をついた。突然の行動に康泰は目を剥いたが、シュノアはそれを気に止める事も無く、康泰の手を掬い取り、手の甲に額を寄せ瞼を伏せた。
「貴き御身に触れる無礼をお許しください。我が名はシュノア・ベルティー。我が意志はあなたの盾となり、矛となって御身をお守り申し上げます」
シュノアが口上を述べ終えた瞬間、何かがぞろりと這い上がる。可視化された『何か』は、茨となって康泰の腕に絡みつき、皮膚に溶け込むようにしてその姿を消した。
「今のは…」
康泰の呟きにシュノアは口角をゆるりと上げただけで、その正体について言葉にする事無く「さて…」と立ち上がった。
「具合が悪くないようでしたら、広間へ赴きませんか?部屋で食事を取るのにも飽きてきたのでは?」
「まあ…確かに…?」
食事に関しては、時折、ミオンやシュノアが共にしてくれはするものの、基本的に二人は忙しいため康泰ひとりで食する事が多かった。そして、生前でもひとりである事が多かったため、端的に言って飽いていた。
「では、参りましょう」
促されるまま身支度を整え、案内されるまま廊下を歩く。
ふと気が付いた。眠る前まで微かに感じていたはずの寒さを感じない。首元に陣取るリィのお陰かとも思ったが、それは違うと感じ取る。
歩きながら、何となく自身の手のひらに視線を落とした。そこには、学生の頃と変わらない、微かに赤みを帯びた『生』を感じる手がある。
外見は何も変わらないのに、体の作りは確かに違う。
「まあ、承知の上だけど…」
体内に渦巻く力の奔流。それは確かに人ならざるものの力。
冥幻魔界に再び生まれ出でてより幾日経つか。今更な事なのかもしれないが、現実感は薄い。
―くあ…
十分な睡眠をとったにも関わらず、大きな欠伸が零れ落ちる。外を見つめ、口元を緩めた。
「ここが、俺の生きる世界、か…」
胸の奥。獰猛な自分が舌なめずりしたような気がした。
***
広間に辿り着き、中を覗き込む。
室内の一角に敷かれた絨毯の上に所狭しと並べられた多くの料理。ミオンが飲み物の準備など忙しなく動いているのを横目に、ソファーにはワイングラスを傾けるヴィヴィアンの姿。
先に気が付いたのはヴィヴィアンだった。
「ご機嫌麗しく、コータ様…あら、まあ…」
柔和な笑みは驚愕の瞬きへと変じる。
それに対して首を傾げた康泰が口を開こうとした瞬間、ミオンが顔を上げた。喜色の表情から一転、呆れたような表情でシュノアを見つめた。
「シュノア、あなた…」
「これは俺の意思だ。諦めてくれ」
ミオンの呟きに、シュノアは口角を吊り上げて言葉を紡ぐ。その双眸は笑う事無く、真摯な光を宿していた。
「…はあ、分かりました」
「すまんな」
ツガイの会話に康泰はきょとりと瞬いた。何に対してミオンは嘆息し、シュノアは謝罪を口にしたのか。
首を傾げ、ふと思い至る。
「もしかして、さっきのアレが関係してる感じです?」
「そうですね」
頷いたシュノアにどうぞと促され、ヴィヴィアンが起き上がったソファーを背凭れに絨毯の上へと腰を下ろした。
康泰の肩から駆け降りたリィが膝元に座り込めば、ミオンの手によりフルーツが盛られた小さな皿が置かれる。
「シュノアが結んだのならあたしもしたい所だけれど、残念ながらまだ結べないのよねー…」
つまらないとのたまいながら、ヴィヴィアンは康泰の隣に腰を滑り落とす。
ヴィヴィアンから差し出された空のグラスを受け取れば、微かにとろみを帯びた乳白色の液体が注がれる。冥幻魔界で目覚めてからずっと好んで飲んでいる白桃のような果物のジュースである。
「ありがとうございます…結局、何がどう言う事で…?」
ひと口飲めば、甘い香りが口内に広がり自然とため息がこぼれ落ちた。
「失礼ながら御身に触れたあの時、私の魔力を僅かに流し込み、主従の契約を結んだのです。ヴィヴィアン様は王妃の立場におられる方。対して、現在のコータ様はどの立場にも属されておられない…王を冠する者は下の者に傅く事は出来ないのです。だから『まだ結べない』と…」
「それでも、あたしはあなたへの服従を捧げましょう。…立場がそれを許さぬ時もあるのは確か…けれども、あなたを裏切らぬと、我らが皇に誓います」
その腕輪にも誓いましょう。
そう言ってヴィヴィアンは微笑んだ。
康泰が視線を落としたのは、手首に煌く付加装飾具。光を反射して鈍く輝くそれは、ヴィヴィアンの『心』が込められていると康泰は知っている。そして、それを使わなければならぬ事態だったとしても、そう安易に使うような享楽の人ではないと、短い付き合いであっても理解していた。
一種の隷属の証と受け取っても相違ないだろう。
「…まあ、お二人…と言うか、ミオンさんも何かしらされているでしょう?」
半ば確信的に問えば、にこりとわざとらしい笑みを浮かべたのが答えだろう。
「お三人のご期待に添えられるかは分かりませんけど、出来得る限りの努力はしたいと思います」
ため息混じりにいただきますと手を合わせ、果物に手を伸ばした。
他愛も無い会話の中、食事は静かに終わり、満足げに腹を撫でながらシュノアと共に去る康泰の背中を眺めつつ、ヴィヴィアンは呆れたような、それでも何処か面映いような表情で笑う。
「随分すんなりと受け入れて下さったわね」
ミオンも苦笑を滲ませながら頷いた。
「私が人であったあの方を迎えに行った時も、あのように仕方が無いと笑って受け入れて下さった…不安と恐怖で胸の内が一杯だったでしょうに…」
「器の大きい方、と言えば響きはいいのでしょうけど…仕様が無いと言う諦念が一番しっくりくるんじゃないかしら?」
罪悪感は特に抱かない。弱味に付け込むのは魔族として常套手段だからだ。無防備にも程がある人間と言う種族は、魔族にとって格好の餌食。言質を取るなど容易い。
優しいミオンであっても、その根底は魔族だ。申し訳ないと思いながらも、我が意思を貫く為には手段を選ばない。
そして、容易く裏切る事をしないのも魔族の性質のひとつだ。
「何にせよ、我らはあのお方をお守りするのみですよ」
「うーん…素直に守らせてくれる方ならいいのだけれどね」
ヴィヴィアンの言葉に対し、すぐに肯定が出来なかったミオンは苦笑を浮かべる事しかなかった。




