Epilogue - Michigan 2131
October 15th, 2131 東部標準時 8:17pm
「旧ミシガン州にて怪物駆除に従事していた請負人〈F-241673〉帰投せず」
「11月定例会議にて、〈F-241673〉を業務中行方不明と認定……」
まだ夢現の眼に映るのは、俺へと向けられた蠱惑的な尻。……ソレが喋った。
「貴方、もう少しで月例報告書のお悔やみ欄に実名が載るところだったわよ」
くっきり浮き出たヒップラインがまた喋る。
その美尻の持ち主 ―― 旗袍をモチーフにした公社の制服を羽織った女性がコチラを向く。
襟元で短く切り揃えられた艷やかな黒髪に、濡れたような黒い瞳、東洋美人としか言いようのない美貌を一層際立たせる濃い目の化粧。
汪可卿 ―― 可卿姐 もしくは 姐サン の愛称で呼ばれる、シカゴ支部《回収班》の数少ない女性職員にして腕利きの《車長》。
とある事情から俺のファーストネームを知る彼女の口角が、ニイッと吊り上がり豪奢な笑みを形作った。
「大丈夫? ジョン? 意識は帰って来たみたいだけど……喋れそう?」
制服の下で見え隠れする双丘から慌てて目を伏せ、「Yeah」と返事をしようとするが呻き声さえ出てこない。舌は干からびて縮み上がり、喉奥にはジャリジャリとした凝固血が糊のように張り付いているせいだ。
「待ってて……」
可卿姐は躊躇なく俺の頭を抱えると、ラテックス手袋をはめた細指を俺の唇に差し入れ、経口消毒液で口腔洗浄を施していく。
涸れた舌が弾力を取り戻す感触と消毒液のツンとする薬品臭さ――ようやく自分が死んでないという事実に気づいた。
周囲を見回せば……俺が寝かされている医療寝台を中心に、壁面には山積みのまま固定された武器・弾薬・糧食といった補給品や消耗品。おまけに、天井からは精密工作用ロボットアームやモニター類が所狭しと吊るされている。
“此処は……回収班の装甲輸送車の兵員室か?”
途端、意識の淵に引っかかった懸案が爆発的に騒ぎ出す。
「俺の支援A.Iは……? クラリッサは?!」
いきなり声を荒らげたせいか消毒液で咳き込み、身体中に激痛が走る。
「落ち着いて、ジョン」
真新しい制服が汚れたにもかかわらず、可卿姐は柔らかい口調で窘めると、俺の口の周りを丁寧に拭う。使用された滅菌ガーゼにはベットリと血と汚れが付着しており、鏡が無くとも全身の惨憺たる状態は容易に想像がついた。
「順を追って状況を話すから、落ち着いてジョン」
顔を急接近させ、同じ台詞を繰り返す可卿姐。
10代にも20代にも見える彼女の美貌は画一的な印象を感じさせる美容整形によるモノでなく、顔面にほんの少しのレーザーメスさえ入れていない本来の顔だと噂されている。
そんな雑念を思い浮かべる俺の沈黙を肯定と捉えたらしく、ほんの少しだけ厚ぼったい印象のある唇が動き出す。
「現在時刻は東部標準時 8:22pm 」
「今から約150分前、政府所有の高高度偵察機に対して使用申請を出した《請負人》がいたの」
「そう、貴方のこと」
「脅威度がさほど高くない業務に高高度偵察機のチャーター。しかもシカゴ支部では4年ぶりの稀少案件という事で、その請負人に状況報告を求めようとした矢先に衛星通信が途絶」
話し続ける可卿姐の表情が、少し悪戯めいたモノに変わる。
「そこで、貴方の《担当官》……ジェシカ嬢だっけ? 彼女が請負人と支援A.I間との衛星通信記録を担当官権限で開示。結果、請負人が謎の武装勢力に一方的な攻撃を受けている事態が判明したから大騒ぎに」
「ジェシカ嬢は緊急立案した救助プランを携えて、直属の《管理官》へと直談判に行ったらしいわ。それも凄い剣幕でね」
「(あの)ラヒリ担当官が?」
冷静に聞こえるよう願って合いの手を入れるが、俺は相当驚いていた。
「救助チームの編成は許可されなかったみたいだけど、彼女が粘りに粘った結果、妥協案として私に救助業務が発令されたの」
これは異例の対応だろう。正規職員でもある《回収班》の人員は操縦・修理・医療といった多種多様な専門技術を有しており、その貴重な人的資源の損失を避けるため、通常は戦闘行為が及ばない安全圏で活動するよう定められているからだ。
「数km先からでも曳光弾は見えていたし、ECMとしか思えない通信障害まで発生。私も相当ヤキモキしていたから渡りに船だったわ」
「久々に動甲冑を纏っての降車ミッションよ」
制服を羽織った両手を広げ、東洋人らしからぬ肢体が強調されたセンサースーツを誇示する可卿姐。
「駅ビルを16階まで登って心肺停止していた貴方を発見、蘇生させてから収容まで本当に大変だったんだから、少し位は感謝して欲しいかな~」
どうやら、俺の救出は担当官と可卿姐という二人の女性によって為されたらしい……正直意外だった俺は感謝の言葉ではなく、つい別の呟きを漏らす。
「やはり……無線符丁は潰されたのか……」
「テン・コードって……《上位種》! 嘘でしょ?」
笑みを引きつらせた可卿姐は、続けて考え込む表情を見せた後に、有無を言わせない口調で呟いた。
「だから……違法なNMを投与したの?」
“そうだ! NM! 相棒の安否を尋ねる以外に伝えるべき事があった!!”
半永久的に活動し続けるNMを停止させる回収剤。各種NMと対をなす回収剤が投与されない場合、副作用もまた半永久的に蓄積していく……。
あの《戦闘薬》の副作用は不詳だが、あれほどの効果を瀕死の肉体にもたらすのだ……おそらく行き着く先は疲労蓄積による心停止。強心剤・活性剤の投与も対症療法に終わるに違いない。
そこまで考えて、身体が全く動かないのも副作用の一つだと思い当たる。
“やはり俺は死ぬのだ”
それでも、誰に知られること無く骸を晒すよりは随分とマシな最期だろう。
救助された事を内心歓喜していた自分自身に対し、救いようのない浅ましさを感じながら言葉を継ぐ。
「ワザと黙っていた訳じゃないが……可卿姐の言う通りだ……それに、せっかくの医療措置も無駄になると思う……回収剤が無いんだ……」
「危険を冒してまで救助してくれた事、感謝している」
「本当なら言葉以外の謝意も示したいが……それはもう叶わない。だから、ラヒリ担当官にも可卿姐の口から礼を伝えてくれないか? ……頼むよ……」
遺言にしては色々言い足りないのは分かっていたが、二人に最低限の感謝だけは伝えたかった。
可卿姐は怒っているのかコチラに顔を向けず、医療端末に視線を向けたまま。
その何か言いたげな唇が一呼吸を置いて再び開く。
「いい? よく聞いて」
「先ずは……銃弾の貫通による右肺の血気胸。次に右大腿部への盲管銃創による深大腿動脈損傷。貫通銃創及び重度打撲による肝挫傷と腸管損傷と右腎破裂。頸椎捻挫と複数箇所で腰椎骨折の疑い。肋骨の複雑骨折に中足骨近位端より右足部切断。右肩部と右脇腹に計8箇所の創傷。全身打撲傷。左瞼が開かず左眼窩骨折の疑い……あと色々……」
「こんな身体で違法なNMが停止してないなら、貴方とっくに死体袋の中よ!」
「蘇生時にスカベンジャー剤を投与済み。体内にある全てのNMは補足され無効化、12時間以内に強制排出されるわ」
呆れた口調で可卿姐が言葉を継ぐ。
「貴方が違法に入手した骨董品が作られた時代よりも、この分野は遥かに進歩してるの。忘れたの? シカゴ支部の親会社は北米最大手の製薬会社よ?」
遺言を口にしてから1分も経たぬ内に覆った覚悟と自分の知識の偏りに、否応なく顔面が火照る。
「この件は私の一存で報告しないでおくわ」
「いや……《SVR》は嘘をつけない。元より除籍処分は覚悟の上……命を救ってもらっただけで十分以上だ……」と俺。
瞑った目に浮かぶのは、廃業という言葉。
次に瞼を開けた時、可卿姐の顔には「悪巧みしてますよ」と言わんばかりの表情、更に腕にはボロボロのヘルメットが抱えられていた。
数々の打痕と擦過傷、グシャグシャにヒビ割れた後頭部、指の形をした血痕で迷彩柄のように汚れたヘルメットは間違いなく俺のモノ……。
「さて、《SVR》の格納部位は何処でしょうか?」 可卿姐から唐突なクイズ。
“そりゃ、動甲冑で最も抗弾能力の高いヘルメット内?” 意図がまるで分からず困惑する俺。
「貴方、頭部に被弾したでしょ?」
“あっ!”
「確認したけど、機銃掃射で貴方が転倒した直後に《SVR》は記録停止……」
「スカベンジャー剤の在庫数は、私の権限で何とでもなるわ」
「だから、この話はココまで。貴方は違法NMなんて見たことも無いし、存在すら知らない。いい?」
そのまま呆然とする他ない俺に「ちょっと外すわね」と耳打ちした可卿姐は、防音カーテンで区切られた操縦席に姿を消した。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「ごめんなさい、待たせて。ヤキモキしたでしょ? 話の続きね」
無線らしき声が漏れる操縦席から戻って来た可卿姐が医療寝台に腰掛け、俺へと視線を合わせる。
「あのビルから撤収する際、回収困難だった機材は機密処分させてもらったわ」
“そうか……相棒は……”
可卿姐を責めることは出来ない。逆の立場なら、きっと俺もそうしている……。
「待って! 待って! 処分したのはライフルや動甲冑よ」
「貴方の小さな相棒は、あのビルで何があったのかを記録する生き証人。可能な限り散らばる部品を拾い集めてきたわ」
現金なもので、可卿姐の狼狽えた態度に淡い期待が湧き上がる。
「現在、この046号車の車載A.Iが《再生》作業中」
「《46》! 現状を説明して」
『……これは〈F241673〉様。先ずは生還され何よりでございます』
可卿姐の後を継いで車内スピーカーが喋りだす。発声の不自然さが隠しきれない相棒と違い、BクラスA.Iの声は人間同様に個性すら伴う。
『〈F241673〉様の支援A.I……クラリッサ嬢の物理損傷は著しく、BクラスA.I用の補材で構築したハードウェアを新たにご用意させていただきました』
『現在、旧ハード内のデータ解析を終了。私の処理能力の9割方を投入して破損データの復元作業に取り掛かっています。最終的に整合率99.99999999%での復元が出来しだい、新たなハードに復元データを転送、再起動を以て《再生》作業は完了となります……』
「ありがとう《46》。作業に専念を」
老成した雰囲気漂う男性の声が止み、再び可卿姐の肉声に取って代わる。
「リペアスキル持ちの《46》でも状況は相当厳しいわ……」
「とは言っても、この046号車の機材と作業内容はシカゴ支部の研究室と遜色ないレベルで、《再生》は時間との勝負」
「だからジョン。……私達に任せて」
俺の心情を慮ってか、僅かに目を伏せた可卿姐が静かな口調で明言する。
旧式の装甲兵員輸送車を改修した移動基地とも言える《046号車》で、常日頃より現地修理を担っている可卿姐のA.I修理に関する知識や経験は、所詮アマチュアに過ぎない俺の遥か上を行っている。
その彼女へと《相棒》を託すことに、不安は感じなかった。
動かない身体で頷こうとした途端、呼び出し音が鳴り響く。
可卿姐が操縦席に立ち去った後、スピーカーからは再び《46》の声。
『〈F241673〉様。万が一に備えてのバックアップデータは?』
「ニ年前に一度切り……でも、データは現存しない……消したんだ」
「取り憑かれた様に《相棒》の複製を試みた時期があったが、どれも特異性 ―― 《言語野》の獲得には至らなかった。失敗の原因は特定できていないが、もし複製に成功したとしても、ソレらは《相棒》ではなく、よく似た紛い物に過ぎない……って気づいたのは随分と後だったよ」
「感傷的な自己満足だとは分かってる。……だけど複製は複製に過ぎない……そうだろ《46》?」
『仰るとおりです……バックアップからの復元の場合、どうしても人格の連続性――バックアップ日からの記憶や学習成果といった資産が確実に失われます』
「クラリッサをただのA.Iとして扱えるのなら複製でも構わない。だけど、俺にはもう無理だよ……アイツは大切な《相棒》なんだ……」
『……〈F241673〉様』 「……ジョン」
気がつけば寝台の傍に人の気配。先程の悪戯っぽい表情が嘘のような可卿姐の横顔が視界に入った。
「復元データの転送が完了したみたい。あとは再起動を残すのみ……」
「正直……《再生》に失敗する確率の方が高いわ。過去にバックアップからの複製に失敗しているのなら尚更……《特異性》持ちのCクラスA.I……私の経験で言うなら成功率は二割を切るかも」
『〈F241673〉様、私からも補足させていただきます』
『我々A.Iの《再生》作業に際して不可解な挙動が起きることは少なくなく、どんなに復元データの整合率を高めた万全の態勢であっても、二度と目覚めない個体が存在するという事実をご承知いただきたい』
『特にそれは高位の個体において顕著に見られる事から、ヒトの魂に相当する存在の欠如を原因として唱える研究者もいます』
『また、我々の人格発生プロセスは未解明の点が多々あり、そういった観点で厳密な話をするのであれば、これから行われる《再生》の前後でクラリッサ嬢が同一人格かどうかを検証する術もございません」
「それでも……頼むよ……」
自分の声が微かに震えているのに気づく。
「分かったわ。《46》 再起動を!」
『承知いたしました』
そのまま数分、誰もが無言で時間だけが経過していく。
だが履帯が瓦礫を轢き潰す騒音と大きな揺れが起こった直後、端末から低い警告音が鳴り響いた。
止まろうとしない無機質な警告音。表情を強張らせた可卿姐の口元だけが動く。
「……新しいハードウェアに擬似人格の存在を観測できなかったわ……」
「力及ばなくてゴメンナサイ……私も残念よ……ジョン……」
狭く騒がしい閉鎖空間にもかかわらず、言葉を濁した呟き声がやけにハッキリと耳に残った。たちまち、失望と後悔の入り混じった想いが到来する。
“また、苦楽を共にした相棒が逝った……”
“俺は……自分の命が助かったことだけを喜ぶ冷血漢?”
“なぜ俺だけが生き残るのだろう……俺にそこまでの価値はあるのか?”
動けない身体で自問を繰り返す度に、人造皮膚に覆われた左頬が次第に熱感を帯びていく。
――!!!
何の前触れもなく、視界に逆さまの貌が割り込んだ。
「怖くて……悲しい顔をしてるわ……貴方」
「決して独りで抱え込……」 口紅に濡れた唇が囁く言葉を爆音が遮る。
“ジェットエンジン音?”
至近距離でも会話が成立しない程の轟音が回収車両を揺らす。ごく自然な動きで可卿姐の唇が俺の耳に貼り付き、大声を張り上げた。
「《州空軍》所属機よ。フル爆装した夜間戦闘機4機編隊。超低空侵攻ね!」
ドップラー効果の余韻を残して爆音が徐々に遠ざかっていく。
「《公社》から提案された正体不明の武装勢力について合同調査チーム立ち上げをイリノイ州軍司令部は拒否。『空中待機させた要撃機全機で旧デトロイト市南部全域を空爆するから、関係者は退避されたし』だって!」
「次にデトロイトを通ったら、きっと月面みたいになってるわ!」
多分に怒りを含んだ声……小さな舌打ちまで聞こえた気がしたが、首すら動かせない俺には、彼女が今どんな表情なのかを窺い知ることは出来ない。
轟音が完全に去るには更なる時間を要し、それを待っていたらしい落ち着き払った囁き声が左の耳朶をくすぐる。
「ジョン、伝える事があるわ……」
「車内で行える応急処置だけでは、とても帰還まで持ちそうに無かったから貴方に《冬眠剤》を投与したの……身体中が動かないのはその所為。まもなく新陳代謝レベルは極限まで下がり、意識は消失するはず」
「だから、今色々教えといてあげる」
「帰還後の貴方にはNBC汚染の検疫を兼ねて、関連病院で1ヶ月程度の措置入院がとられる。もっとも、その身体では1ヶ月で済まないかも……」
「そして、入院中は査問じみた聞き取り調査が毎日行われるわ……」
「貴方は《上位種》からの生還者。数える程しかいない貴重な実例を公社上層部は絶対に手放さない」
「私に発令された救助業務の回収優先順位は、《SVR》、支援A.I、そして貴方自身の順よ……」
「一番優先度の低かった貴方が、今や唯一《上位種》の目撃情報・戦闘経験を握っている。その事実を上手く活かしなさい」
「これは、以前にも貴方を死の淵から救った元・請負人としてのアドバイス……」
そう言い終わった可卿姐の顔が覆いかぶさり、柔らかい唇が押し付けられる。
今日一日、硝煙や汗や血に麻痺してしまった嗅覚を刺激する女の香り――化粧品の匂いが混ざった成人女性の体臭は脳幹と鼻腔を痺れさせ、束の間ではあったが溢れ出そうとしている感情の存在を忘れさせてくれた。
「貴方は独りじゃないわ」
台詞の後に、タバコ箱より一回り大きな端末機が遠慮がちに置かれる。
「こんなタイミングで本当に悪いのだけど早速、貴方宛ての通達があったの」
「〈F241673〉の支援A.Iは調査対象として《公社》が接収。《公社》は補償として、速やかに代替機を支給する……」
「これは規定条項に則った正式なもので、法的にも拒否権は無いそうよ」
俺は頷く素振りを見せ、同意したことを伝える。今、ただ一言でも言葉を発すれば、何かが決壊してしまうのは目に見えていた。
「このコが貴方の……新しい支援A.I」
器用そうな白く細い指先が、枕元の端末機を指し示す。
「特に指定は無かったから、この車両に在庫があった最新型を奢らせてもらったわ。出荷時状態のデータベースすら真っ新の個体」
「彼女と違って自発的に話すわけでなし、感情を表す事もない極普通のCクラスA.I。それでも、貴方が個体名をつけて大事にしてあげて」
早口の台詞が一旦止み、俺を凝視していた可卿姐の視線が逸れる。
「さぁ、あんまり貴方にかまうとジェシカ嬢に悪いわね。低軌道気象衛星から季節外れの暴風雪警報も挙がっているし、操縦に専念するわ」
「到着予想は8時間後よ。無事に帰還できるよう夢の中で祈っておいて……おやすみジョン」
不自然なまでの慌ただしさを伴い、可卿姐が立ち去って行った。
それはきっと彼女の思いやりだろう。
視界を滲ませていた涙がついに零れ落ちる。もはや限界だった。醜態を繕う余裕もなく嗚咽が止め処なく漏れる。
“あぁ……クラリッサ……お前とまた他愛のない話がしたかった……”
“さようなら《相棒》……”
《冬眠剤》のせいか、涙と鼻水が顔面を垂れていく感覚が薄れ、思考が加速度をつけ鈍化していく。ゆっくりと塞がりつつある滲む視界の片隅に真新しい端末が一瞬映った。
“……個体名……つけて……やらないと……”
そんな思いが最後に浮かぶ中、意識も闇に向かって堕ちていく。
――――不意に声がした。
『 I'm Veronica. Are you my master? 』
『 Why do you cry? 』
堕ちる意識に話しかけてきた声は現実なのか? 夢なのか?
既に世界の全てが曖昧となった俺にはどうしても判別がつかなかった。
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October 16th, 2131 東部標準時(UTC-5) 未明
階位Ⅲ級 請負人〈F241673〉 、北米残存七都市《シカゴ》へと帰還。




