[34話] X-DH02-X 後篇
「痛ッ……」 立ち上がろうする意志に反して、へたり込む下半身。
右戦闘靴での踏ん張りが利かず、上半身まで崩れるのを左腕一本で支える。
このタイミングで、闇に同化した異様な影をヘルメット奥の肉眼が捉えたのは全くの偶然だった。
“今のは?”
頭の中で警鐘が響いた直後、鎌首をもたげた影が肩口へ掴みかかる。
予想外の事態に抗えず、横倒しにされる動甲冑。
即座に逆手で拳銃を持ち替え、右肩にウェポンライトを向ける――眩い光に浮かび上がったのは動甲冑にガッチリと食い込んだ四本爪。
“《怪物》! 今まで何処に?”
特殊鋼の爪が.30口径弾を阻止する装甲を穿ち、勢いよく液体が噴き出した。
顔面への飛沫からは、劣化した《化学血液》の饐えた臭い。
たちまち、プレス機で圧壊される様な痛みが肉体を襲う。
“肩を潰される前に……残った目玉を潰す!”
ロクに考える時間も無いまま光源を奥に向けるが、暗闇を割って現れるはずの怪物がいない。代わりに浮かび上がったのは、床一面に這い回るヌメヌメとした光沢を持つ触手――まさに異様としか形容できない光景。
“一体何なんだ!!” 冷静から程遠い精神が疑問符を発する。
絶叫を上げたい衝動を抑えつけた俺は、肩にぶら下がった怪物の手首(?)から触手が伸びているのに気づく。
あれほど張り詰めていた集中力は完全に霧散していたが、このまま黙って肩を潰される謂れは無かった。
Dang! 倒れ込んだ体勢から放たれる9mm強装徹甲弾。
が――、直径2cm程の触手は意外なまでの耐弾性を発揮し、直撃に耐える。
Dang! Dang! Dang! Dang! Dang! Dang!
次々に排莢される空薬莢。残弾数が頭をよぎっても、現在進行系で肩を潰されかけている俺の指先は止まろうとしない。
Dang!
それを最後に、トリガーを何度引いても銃音と反動がしなくなった。
痛みに滲んだ視野では、醜い断面を晒した触手がのた打ち廻っている。
“残弾0……”
俺は絶望と後悔を押し隠して、スライドの開いた拳銃を叩き置く。
動甲冑から漏出する化学血液のせいで、爪は滑りやすく力が込めにくい。
所在不明の怪物に気は逸るが、随分と力の緩んだ爪を剥がすべく両手を掛けた。その次の瞬間――
Wham!!
身体が床面で一度跳ね、気づいた時には回廊の内壁が目前まで迫っていた。
派手な衝突音と痛みの後に、意識が飛ぶ。
仰向けで倒れたらしく、焦点が合い始めた視界には崩落痕が目立つ昏い天井。
何故こんな状況になっているのか理解が追いつかない。
インカムから聞こえるのは、荒い呼吸音と強制冷却器の騒音。
“妨害雑音が止んだ……?”
今日一日で散々痛めつけられた鼓膜が、直ぐ傍まで近づく脚音を捉えた。
視線を向ければ、俺を見下ろす様にして怪物の輪郭――右肩に相当する箇所からは触手が垂れ下がって蠢めいている。
“なるほどな……最初に投げつけたのは怪物の右手でした……ってか?”
右脚と同様、右腕まで《再生》を果たしていた事に気づいても、今更後の祭り。恐らくは右腕を餌に忍び寄り、俺に横殴りの一撃を叩きつけたのだろう。
暗闇に慣れた眼に、怪物の左腕が高々と掲げられる様子が映った。
四本爪の鈍い光沢がヤケに目立つ。
“あぁ……死ぬんだ……”
漠然と死を受け入れる俺の腹部へと、人工筋肉で盛り上がった左腕が勢いよく振り下ろされた。
動甲冑が盛大に軋むのと同時に、腹の中より何かが砕ける鈍い音。
途端、欠損した右足先ですら可愛く感じるほどの信じがたい激痛。横隔膜が急痙攣し、熱の塊がそのまま喉元に迫り上がってくる。
ガッハッ! ブハッ! 仰向けの口から血飛沫が勢いよく噴き出した。
――爪ではなく前腕部による打撃。
バックパックが圧壊したのか、悲鳴に似た強制冷却のファン音が止む。
感覚は激痛に占拠されつつあり、肉体は身体を攀じるのがやっと。
――持ち上げられていく怪物の左腕。
また同じ箇所目掛けて、前腕が振り下ろされた。
動甲冑の装甲厚を無視する、肋骨がバラバラに砕けそうな衝撃。激痛だけでなく耐え難い灼熱感が腹腔内に再び生じ、口腔から溢れ出た血液が両頬を伝ってセンサースーツを汚す。
“遊んでや……がる” 奇妙なまでの確信。
たった一度、爪を振り下ろすだけでカタが付くのに……。
――三度目の殴打。
仰向けの胸と腹が着く程に身体がくの字に曲がった後で、口以外に両方の鼻腔からも血がダラダラと溢れ出す。いっそ死んだ方がマシと思える痛みに加え、呼吸が出来ないのが堪らなくキツイ。
四度目、五度目と、執拗に怪物の左腕は振り下ろされる。
知らぬ間に始まった全身の痙攣は一向に止まらず、酸素不足で朦朧としていても断末魔のソレを充分連想させる代物だった。
“唯一の救いは標識が生きていることだ。咄嗟にポーチを相棒近くに投げ込んでおいて正解……《相棒》だけでも助かるのなら……御の字……”
思い掛けなく、何時か書籍で目にした一節が浮かぶ。
「The hope is born only in hopeless despair(希望とは救いようのない絶望の中でしか生まれない)」
血塗れの口元が、ほんの僅かだが歪む。もう身体は痛みを感じなくなっていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
次に覚醒し、随分と時間をかけて視野に像を結んだのは怪物の背中だった。
“……トドメを……刺ささなかったのか……”
安堵ですら億劫に感じる中、インカムを騒がす無線通話 ―― 繰り返される相棒の声にようやく我に返る。
『My Master! I'll buy me time! Get away! Please!! (マスター! 私が時間を稼ぐから逃げて!!)』
“時間を稼ぐ? ”
覚醒直後の混濁した意識が、怪物が俺を殺さなかった理由に思い当たった。
だが言葉を口にしようにも呻き声さえ出てこない。血が絡む喉の奥からは、奇妙な呼吸音だけが漏れ出る。
苛立ちを感じさせる足取りで、離れていく怪物。
“頼む……《相棒》には手を出すな……”
身体は鉛を詰め込むだけ詰め込んだみたいに重く、うつ伏せに転がったところで力尽きた。最早、指一本動かせる気がしない。
“俺はどうなってもいい……”
口と鼻から垂れた生温い液体が、床の泥埃と混じり合って広がっていく。
“やめてくれ……”
濡れた唇が震えるだけで、言葉は形にならない。
焦点の定まらない目でどんなに睨み据えても、怪物の歩みは止まらない。
“やめ……ろ……”
そして怪物は、相棒を退避させた部屋へと姿を消す――。




