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僕の先生の話  作者: 廣田 廉
8/19

隠蔽

僕が先生と慕っていた人は、ひどく音痴だった。

それに初めて気づいたのは、確か僕が半袖のTシャツを着ていたから、きっと夏頃のことだ。

 エアコンの効いた書斎で、先生がコーヒーを持ってきてくれるのを待っていた時だった。

「北のお、酒場通りにはあ」

初め聞いたときはお経の類だろうかと思った。

それが先生の声で階段の方からきこえてくるのである。

歌詞からして細川たかしの「北酒場」なのだが、ところがどっこいどう聞いてもそうはきこえない。

「髪のお、長い女が似合うう」

痩身をくねらせて部屋へ入ってきた似非細川たかしを、半ば侮蔑の目で見つめる。

「それ、本気で歌ってるんですか」

怪訝に尋ねた僕を、先生はぽかんとして数秒間見つめたあと「俺はいつも本気だよ」と冗談めかして答えた。

「本気で歌ったならそうはならないでしょう」

「何だよ、俺のこと音痴って言いたい訳」

そうです、と出かけたが、一応年上な上にコーヒーまで出してもらっている身の上なので、そんな偉そうなことは口が裂けても言えない。

口ごもる僕に先生は言った。

「そらそら、やっぱりそうだろ。知ってますよ、どうせ俺は音痴です」

 そう言って先生は年甲斐もなくむくれてしまった。重い沈黙が流れる。そんな空気を救うが如く、彼女は現れた。

「こんにちは、志摩さん」

 柔和な笑みを顔にたたえて、書斎の入口に立っている。

「春江さん」

 思わぬ女神の登場に、ふと声が出る。

「志摩さん、何かあったんですか。お返事もなさらないで」

「いや、ちょっとね」

 そう先生は言ったが、顔はまだ少しむくれたままだった。

「ちょっと下で新聞でも読んでくるので、こいつの相手でもしてやってくれませんか」

完全にふてくされた先生は、そう残して階段を下りていった。

「あらあら。どうしちゃったのかしらね」

 そう言いつつも、春江さんに困った様子はなかった。

「あの、すみません。あれ多分僕のせいです」

 申し訳なくなり、謝る。

「いいのよ、気になさらないで。志摩さんはちょっと難しいところがあるお人だから」

 彼女はそう笑って、固まった空気をほぐしてくれた。

「しかし、なぜ志摩さんはあんなにむくれていらっしゃるのかしらね。あなたはご自分のせいだとおっしゃっていたけど、何があったのか聞かせて頂いてもよろしい?」

 僕は仕方がないので語ることとした。

 全て語り終えた僕は、春江さんから視線をそらした。どうも胸の奥がこそばゆくて、そうするしかないような気分になったのだった。

「なるほど」

そう言って春江さんは遠くを見た。

くだらない話だったかもしれない。何より僕は些か先生に失礼をはたらいているようなものだから、こんな沈黙はじわじわと胸に刺さってくるようだ。

 と、そのとき、春江さんが笑いをこぼした。

「昔からそうなんですよ。そうですか、音痴は未だ治らずでしたか」

何でも幼き志摩少年は、とにかく「作る」ことが大好きで、自作の歌もよく作っては春江さんに聞かせたという。

「すごく楽しそうにお歌いになるのよ。でもね」

 笑いを含みながら彼女は言う。

「全部お経みたいなの。抑揚がないというか、みんな一緒に聞こえたわ」

 つまり、僕が今日聞いたあの「北酒場」が如くだ。思わず笑いがこぼれる。

「あんなに素晴らしい作品をお書きになる方が、まさかね」

 笑いと一緒にこぼした。

「そう思うでしょう。お話作りは昔からずっと上手いのよ。でも歌は聞いて頂いた通りなの。ふふ、ああ、あと数字もダメね。だからお買い物は私がしているのよ」

「数字もダメなんですか」

「ええ、てんでいけないわ。簡単な計算も難しいみたい」

 春江さんはふと、懐かしむような目をして遠くを見つめた。

「昔おままごとで数字を覚えさせたのが懐かしいわ」

「え、おままごとですか。小さい時に」

「そうよ。男の子だけど、おままごとが大好きだったわ」

あるときは魔法が使える母親に、またあるときは狼男の兄に、志摩少年は扮したという。

そこで、僕は一つ、不思議なことに気づいた。

「小さい時から関わりが強かったんですね」

 叔母という位置づけにあるにも関わらず、春江さんと先生の距離は驚く程に短い。すると彼女はでっち上げたような笑顔で、早口に言った。

「それは、ちょっと。色々あったんですのよ」

 明らかに何かを隠しているその顔は、先生とどこか似ているのだった。




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