隠蔽
僕が先生と慕っていた人は、ひどく音痴だった。
それに初めて気づいたのは、確か僕が半袖のTシャツを着ていたから、きっと夏頃のことだ。
エアコンの効いた書斎で、先生がコーヒーを持ってきてくれるのを待っていた時だった。
「北のお、酒場通りにはあ」
初め聞いたときはお経の類だろうかと思った。
それが先生の声で階段の方からきこえてくるのである。
歌詞からして細川たかしの「北酒場」なのだが、ところがどっこいどう聞いてもそうはきこえない。
「髪のお、長い女が似合うう」
痩身をくねらせて部屋へ入ってきた似非細川たかしを、半ば侮蔑の目で見つめる。
「それ、本気で歌ってるんですか」
怪訝に尋ねた僕を、先生はぽかんとして数秒間見つめたあと「俺はいつも本気だよ」と冗談めかして答えた。
「本気で歌ったならそうはならないでしょう」
「何だよ、俺のこと音痴って言いたい訳」
そうです、と出かけたが、一応年上な上にコーヒーまで出してもらっている身の上なので、そんな偉そうなことは口が裂けても言えない。
口ごもる僕に先生は言った。
「そらそら、やっぱりそうだろ。知ってますよ、どうせ俺は音痴です」
そう言って先生は年甲斐もなくむくれてしまった。重い沈黙が流れる。そんな空気を救うが如く、彼女は現れた。
「こんにちは、志摩さん」
柔和な笑みを顔にたたえて、書斎の入口に立っている。
「春江さん」
思わぬ女神の登場に、ふと声が出る。
「志摩さん、何かあったんですか。お返事もなさらないで」
「いや、ちょっとね」
そう先生は言ったが、顔はまだ少しむくれたままだった。
「ちょっと下で新聞でも読んでくるので、こいつの相手でもしてやってくれませんか」
完全にふてくされた先生は、そう残して階段を下りていった。
「あらあら。どうしちゃったのかしらね」
そう言いつつも、春江さんに困った様子はなかった。
「あの、すみません。あれ多分僕のせいです」
申し訳なくなり、謝る。
「いいのよ、気になさらないで。志摩さんはちょっと難しいところがあるお人だから」
彼女はそう笑って、固まった空気をほぐしてくれた。
「しかし、なぜ志摩さんはあんなにむくれていらっしゃるのかしらね。あなたはご自分のせいだとおっしゃっていたけど、何があったのか聞かせて頂いてもよろしい?」
僕は仕方がないので語ることとした。
全て語り終えた僕は、春江さんから視線をそらした。どうも胸の奥がこそばゆくて、そうするしかないような気分になったのだった。
「なるほど」
そう言って春江さんは遠くを見た。
くだらない話だったかもしれない。何より僕は些か先生に失礼をはたらいているようなものだから、こんな沈黙はじわじわと胸に刺さってくるようだ。
と、そのとき、春江さんが笑いをこぼした。
「昔からそうなんですよ。そうですか、音痴は未だ治らずでしたか」
何でも幼き志摩少年は、とにかく「作る」ことが大好きで、自作の歌もよく作っては春江さんに聞かせたという。
「すごく楽しそうにお歌いになるのよ。でもね」
笑いを含みながら彼女は言う。
「全部お経みたいなの。抑揚がないというか、みんな一緒に聞こえたわ」
つまり、僕が今日聞いたあの「北酒場」が如くだ。思わず笑いがこぼれる。
「あんなに素晴らしい作品をお書きになる方が、まさかね」
笑いと一緒にこぼした。
「そう思うでしょう。お話作りは昔からずっと上手いのよ。でも歌は聞いて頂いた通りなの。ふふ、ああ、あと数字もダメね。だからお買い物は私がしているのよ」
「数字もダメなんですか」
「ええ、てんでいけないわ。簡単な計算も難しいみたい」
春江さんはふと、懐かしむような目をして遠くを見つめた。
「昔おままごとで数字を覚えさせたのが懐かしいわ」
「え、おままごとですか。小さい時に」
「そうよ。男の子だけど、おままごとが大好きだったわ」
あるときは魔法が使える母親に、またあるときは狼男の兄に、志摩少年は扮したという。
そこで、僕は一つ、不思議なことに気づいた。
「小さい時から関わりが強かったんですね」
叔母という位置づけにあるにも関わらず、春江さんと先生の距離は驚く程に短い。すると彼女はでっち上げたような笑顔で、早口に言った。
「それは、ちょっと。色々あったんですのよ」
明らかに何かを隠しているその顔は、先生とどこか似ているのだった。