叔母
先生の書斎で先生とコーヒーを飲みながら、いつものように歓談していた。
「こないださ」
先生が言う。
「とだっちの犬が死んだ時の話を聞いたんだ」
とだっちとは、どうやら戸舘さんのことであるようだ。
先生は続ける。
「ところでさ、とだっちってああいう人じゃない。ほら、自分の身を犠牲にしてでも貢献できるものは文学に貢献するでしょ」
その通りだと思う。小説を書くためだけに、わざわざ自分の耳にピアスホールを開けるような人なのだ、あの人は。
「それが小さい頃からそうだったらしくて。だからか、戸舘少年は家族の一員であった大事な大事なワンちゃんが死んだとき、一番に感じたのは悲しみじゃなくて」
悪趣味な笑みをたたえた口はこう繋いだ。
「『これで悲しいお話が一つ書ける』っていう、高揚感だったんだってさ」
ぞっとした。ある程度あんな人だとは認知できていたつもりだったが、まさかここまでとは。病的なのにも程がある。
驚いたよね、と先生がにやにや笑う。僕が返答に困っていると、突然書斎の入口から初老の女性が顔を出した。
「志摩さん、こんにちは」
上品な出で立ちの女性だった。彼女は白くなった髪の毛を後ろで団子状に束ね、細くたれた目で僕を優しく見つめていた。
「あら、お弟子さんですか。なんと珍しい」
女性がそう言うと、先生が苦笑いして言った。
「ええと、まあ」
「まあ、なんとも喜ばしい限りですわ。突然でごめんなさいね。私は志摩さんの叔母の春江です。よろしくね」
そう言って彼女は笑い皺を作った。
「あ、えっと、いえいえ。どうもお世話になっています」
僕は半ばしどろもどろになりながら、簡素な自己紹介をした。
「しかし志摩さん、お弟子さんだなんて珍しいですね。一体どこでお知り合いになられたんですか」
「ちょっと、まあ、色々とね」
思春期の子供のようなはにかんだ様子で、先生も苦笑しながら言う。
「今日もお掃除に参りましたから、終わりましたらまた一声おかけしますね」
「有難う、お願いします」
こんなにへこへこしている先生は貴重だった。今でも印象に残っている。どうやら春江さんには頭が上がらないようだ。
「ではね、お弟子さん。ゆっくりしていって頂戴ね」
はいどうも、と短く返した。
先生は春江さんが出て行ったのを見計らって僕に耳打ちした。
「叔母さんはちょっとお節介なところがあるんだ。俺だって決して家を汚くしてるわけではないだろう。それが分かっていても毎週来るんだよ、彼女」
文面だけ見るときっと冷たい言葉だと思われるかもしれない。しかしその言葉の裏には、どことなく愛が感じられた。先生が春江さんに頭が上がらない理由を感じられたのだ。
「まあ決して嫌いではないけどね」
照れを隠すように先生は言った。なかなか見られないであろうその顔は、大きな窓から差し込む夕日に反射してよく見えなかった。