友人
いつものように先生の家を訪ねたとき、玄関先に見知らぬ人影が見えた。
それは先生宅をちらちら見ながら、メモ帳に何やら書き込んでいる。目つきは尋常ではなく熱心な様子だ。怪しい。怪しすぎる。
ここでさっさと警察に突き出せばよかったのだろうが、僕はあろう事かそれに話しかけてしまった。
「あの」
するとその人影は、ふと顔を上げた。アーモンド型の目が、僕を不思議そうに見つめる。
「人の家の前で、な、何してるんですか」
舌がもつれそうになったが、なんとか言い切る。
「ええやん、ここ君の家ちゃうやろ」
薄い唇がこぼした。関西弁を話している。色々とびっくりして、思わず後ずさった。
「えっ」
「だから、ここ君の家ちゃうやろ。あと、ここの家人と僕は仲がええんや。許可も得てる。そやからほっといてくれるか」
「え、あの」
「何やの」
「僕も、ここの家人と仲良いです」
「はあ?」
細い眉がいかにも不愉快そうにねじ曲げられたとき、玄関から先生が顔を出した。
「おやおや、俺の一番弟子さん、こんにちは」
にこりと僕に言う。いつの間にか僕は一番弟子になっていたらしい。
「こ、こんにちは。あの」
この人は一体何なんですか。
僕が言い切らないうちに、先生は笑ったまま説明してくれた。
「この関西人?俺のオトモダチ」
僕がぽかんとしていると、関西人は不愉快そうな顔からは一転、驚いたような表情を呈し、朗らかに話しかけてきた。
「ほおーっ、こちらが件のお弟子さんでっか!噂は聞いとりましたで。ささ、上がって。お話しましょうや」
先生はすかさず、「ここ俺の家だよ」と抗議する。しかしすぐに「まあいいけど」と頭を掻いた。そうなると関西人はもう止まらない。
「ほれ、先生も言うてくれてることやし、入ろう、入ろう」
そう言って、僕と先生を家へと押し込んだ。
「俺の友人。戸舘先生」
書斎に着くと先生は、かの関西人を紹介した。
ほぼ白に近い金髪に、両耳にはピアス穴が数個という若者らしい顔に対し、程よく筋肉のついた身体には黒いスーツをかっちり着こなしていることが、些かの違和を感じさせる。
「改めてどうもこんにちは、少年。ご紹介に預かりました通り、戸舘と申します」
先程までの仏頂面が嘘のように、その顔はにこやかだった。
何でも彼らは茶話会で知り合ったらしい。
先生がある人物にほぼ強制的に行かされた作家の会合、茶話会で戸舘さんに声をかけられたのが最初だと、先生は話した。
自分より若い作家に出会うことは珍しかったこともあったが、何よりこの喋り方が付き合う決め手だったらしい。
「さっき外でやっていたの、あれはなんだったんですか」
僕が訊くと、戸舘さんはへらへらとした笑顔のまま答えた。
「いいや、何も大したことはしてないぞ。志摩先生のお宅の特徴を書き出してただけや」
「それはまた、なぜそんなことを」
「そら、作品の参考にするためよ」
「じゃあ何もあそこまでしなくたって」
いいじゃないですか。そう言い終わらないうちに、彼は続ける。
「何事も経験やで、少年。君は変やと思てるかもしれんけど、この頭も不良少年の気持ちを理解するために脱色したもんやし、この耳の穴かて、恋人に心無いことを言われて傷ついてはピアスを増やす女の子の心情に近づくために開けたもんや」
すると脇から先生が口を挟んだ。
「体験型作家で売り込んでいるからね、彼は。何でも自分で体験したことを題材にして書くっていうので、最近の業界をざわつかせているみたいだよ」
「何もそんな偉そうなことちゃいますわ、先生。だってそうやないと書かれへんのですもん」
「またまたそんなご謙遜を」
そう先生は茶化した。
しかして、人間嫌いを公言する先生の懐にここまで入り込んでいるとは、この戸舘なる人間はいかほどの者なのだろう。
不思議に思っていると、横から「なあ少年」と声がかかった。振り向くと、関西人がにんまり笑っていた。
「君はブラックコーヒーを飲むかな」
「飲みますけど」
「じゃあ志摩先生、いつもの」
そう戸舘さんが注文でもするように先生を見ると、先生は気怠げに、はいはい、と台所に消えていった。
先生がいなくなったのを確認して、
「少年よ」
短く、戸舘さんは僕に声をかけた。僕はそれに応じる。すると彼はまた短く言う。
先程の柔和な雰囲気は影を隠し、しかし突慳貪でも何でもない、まるきり色のない声で。
「志摩先生みたいには、なるなよ」
含みを持ったその言葉を、僕はそのとき理解できなかった。
そのあと先生はブラックコーヒーを二杯と、例の白いコーヒーを一杯、盆に乗せて運んできてくれた。
そしていつもどおり他愛のない会話をして、いつもどおり別れた。
「志摩先生みたいには、なるなよ」
軽薄な大阪人が発した重厚なこの言葉の意味が分かる日は、そう遠くはない。