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僕の先生の話  作者: 廣田 廉
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先生

先生は僕をいつもの書斎へ連れてくると、これまたいつものように「コーヒーでいいよね」と言いながらキッチンのある一階へと消えていく。

 その間に僕は深い息を吐いて、さっとロッキングチェアに腰掛ける。そしてありとあらゆる本が支配するこの空間を、ぐるりと目で一周する。すると年季が入った本棚の煤けた匂いが鼻腔をくすぐった。先生はまだ帰ってこない。

 ―――ここで、どれだけの言葉を、先生と交わしただろうか。

 ふとそんなことを考え出す。

 走馬灯のように蘇ってくる記憶たち。取るに足らない日常。思惟の深淵。生と死の狭間。そんな眩い記憶たちの中に、僕の思考回路は溶けていった。


 はっ、と目が覚めると、そこは自室のベッドの上だった。今のは夢だったということか。そう気付いてしまうと、無性に寂しい思いに襲われる。久々に会えたと思ったのに、と。

 ふと目をこすると、指先には塩水が纏わりついていた。僕はまた先生に泣かされたようだ。こんなことで泣くとは、僕は本当に駄目なやつだ。つくづく考える。

 しかし僕はもういい歳の社会人である。感傷にばかり浸っていられない。

 ベッドから体を引き剥がして洗面台へ向かう。しゃこしゃこと歯ブラシを滑らせながら先生との思い出にまた浸りかけて、我に返る。思い出し始めたらもう止まらないのだ、多すぎて。

 あたたかい思い出の対価は朝食だった。時計を見ると、もう電車ギリギリの時間だ。昨日楽しみに買っておいた新発売の菓子パンを仕方なく諦めて、小走りで駅に向かった。


 と、いうのが今日の朝。ちなみに先刻帰ってきたところだ。

 今日は先生のことが頭にこびりついて、仕事も手につかなかった。たくさんミスしてしまって上司に怒られまくったくらいにだ。

 そんなダメサラリーマンが、今から拙い文章ではあるが先生との思い出を書いていこうと思う。

 何故かと言えば、先生のことがずっと、忘れられないでいるからだ。先生のことは、あたたかな思い出でありながら重荷なのだ。だからどこかに置いてしまいたい。置き去りにしてしまいたい。でも置いた先のことは僕だって知らない。これを置くのにかかる時間も分かりっこない。何年、何十年、もしかすれば僕が死んでも終わらないかもしれない。それでも僕は、先生との思い出を消化したいのだ。今どこで何をしているかわからない先生と一緒に過ごした時間を、少しでも。誰が読んでくれるかもわからない、もしかしたら地球が滅ぶまで誰の目にも触れないかもしれない、そんな小さくて大きな物語を。



 先生との出会いは、なかなか衝撃的なものだった。

 僕が高一の頃だったろうか、やはりこんなとろくさい僕だからいじめを受けていた。そして不登校になった。自分で書いていて呆れるほどのありきたりぶりだが、本当にあったことなので仕方があるまい。

 ずっと家にいるのも気持ちが塞ぐので、いじめっ子が登校し、授業を受けているであろう間、僕は近所の古びた小さな公園に足繁く通っては、そこに入り浸っていた。

 僕の家とそこは低い山の上にある。家の前の短い坂を下り、そこを少し左に曲がると、その公園はいつも寡黙に僕を迎えてくれる。そしてそこの少し右に傾いたベンチに腰掛けて、ずっと読書に耽っていた。

 やがていじめっ子と顔を合わせてしまいそうな時間になると、すごすごと家に帰るのが僕の日課だったのだ。

 その日もそうだと思っていた。

 起きて、尊敬する作家が最近出した、まだ新品の小説を持って公園へ行って、それからいつものように読み耽る。

 昼下がりだったろうか。一旦昼飯を掻き込むために家へ撤収しようと本を閉じた時、左側に人影が。普段は人ッ子一人いないと言っても過言ではないこの公園。しかも急に視界に入ったものだったから、僕は心臓が口から出てしまうのではないかというくらい驚いた。一瞬にして気持ち悪い汗に包まれたあの感覚は、今でも忘れられない。

 そしてほぼ反射的に振り向くと、長身の若い男の姿があった。

 長い睫毛に囲まれた狐目、程よく通った小鼻、端正に並んだ白い歯が覗く薄い唇。それら全てが、あるべきところに綺麗に並んだ顔。それがにやりと笑っていた。それに加えて猫背で撫で肩の背中、病的なほどの痩身に張り付いている皮膚は、これはまた本当にどこか悪いのじゃないかという疑いを持たれかねないくらいの白さだった。しかも時代錯誤も甚だしい着物を着込み、足には下駄ときた。

 これのどこが不審者ではないというのか。僕は咄嗟に身構えた。

 するとその男は突然に腹を抱えた。

「大丈夫、大丈夫!俺別にそんなのじゃないから」

 多分僕の若干大袈裟な反応が面白かったのだろう。そして彼はこう続けた。

「それってさ、箸端志摩作品でしょ」

 僕が読んでいた本を指差す。

「いや、そうですけど」

 それがどうしたんですか、と突慳貪に返すとその人はまたにやりと笑った。

「それ、俺が書いた」

 思考停止。ちょっとまて、箸端氏は僕が一番尊敬する作家だ。『俺が書いた』?まさかこいつ、なりすました気になって箸端氏を愚弄するつもりか。

 怒りがこみ上げようとしていた。すると頭上から「『道化と豆電球』」と短く、男が呟いた。

 そして唖然とする僕に彼は「俺の処女作。読んだことある?」とまたにんまり笑ってみせた。

「そんな信じられないって言うなら、証拠にでも俺が出したの端から言っていくね。そしたら信用してもらえるでしょ。あ、執筆の裏話なんかもお付けしようか。ええ、じゃあはい二作目『フィラメント』。三作目『たかが砂漠の塵だとて』。四作目は…」

「もういいです。分かりました」

 二作目の名前が出たときに、僕は疑いを捨てざるを得なかった。なぜならそれは箸端氏が筆を執った中で一番知られていない本、それどころか箸端ファンであっても知らない人のほうが多い作品だったからだ。そして偽者が安易に執筆の裏話を話そうだとか言うことはきっと難しいことに違いない。たかが偽者が、そんなことをぺらぺら語れるわけがないということを、僕でさえもがわかっていた。まあ後から考えたらまだ本当に不審者だと疑う余地は山ほどあったのだけれども。しかし僕は、今でもそうだがそこまで頭も良くなかったから、深くは考えられないでいたのだった。

 そうして僕が白旗を上げると、彼は嬉しそうに口角を上げた。

「そうです。このワタクシこそが箸端志摩です」

 何だか可笑しくて笑いが、ふふ、とこみ上げてきた。すると箸端氏は調子に乗った子供のように「今のが面白かったか、面白かったんだろう」と僕の顔を覗き込んでくるのであった。

 そしてふと顔を上げて「さて、こんなところでは何だから、俺の家に上がって行きなさい」といきなり言うものだから、僕は度肝を抜かして、慌てて断った。

 そうすると彼は「いいから、いいから、とって食やしないって。まあ向こう言ってから色々話すからさ」と、公園に面する坂を、僕に構いもせず登っていく。僕がどうしようかおどおどしているとふと立ち止まって「こないの?置いて行っちゃうぞ」とわざとらしく放って歩き出した。僕は何かもったいない気持ちになって、結局ついていくことにしたのだった。


 箸端氏の家は、公園からさほど遠くない、というよりか公園からも充分に見える位置にあった。しかも結構な豪邸だ。煉瓦造りの壁に蔦が這っている、といういかにもといった趣の、洋風のお屋敷。着物姿とはミスマッチな、瀟洒な家だった。

 まあ入って、と箸端氏が言うので、どうも、と敷居を跨ぐ。そして三階の書斎へと案内され、「これしかないから申し訳ないけど、これに」とロッキングチェアに座るよう促される。そして「コーヒーでいいかい」の声に、はいと答えた。すると彼は「オッケー、オッケー、しばしお待ちあれ」と階段の方へ消えていった。

 なんだ、変人かと思ったら意外に至れり尽くせりじゃないか。ここまでされると申し訳ない気持ちにさえなってくる。

 暫くすると「お待たせ」と盆にグラスを二つ乗せて箸端氏はやってきた。僕の分であろうブラックコーヒーと、箸端氏のであろう牛乳らしき飲み物。

「牛乳、お好きなんですか」

 ふと訊いた。すると箸端氏は小首を傾げて「これ牛乳じゃないけど」と言う。

「コーヒーだよ、これ」

 嘘だと思った。こんな真っ白い飲み物がコーヒーなはずがない。

「まあ98%牛乳なんだけどね。まあ2%でもコーヒーが入ってることに違いはないでしょう。だから、これはコーヒーなの」

 結局のところほぼ牛乳じゃないか。というかこの人はコーヒーと牛乳で飲むのか。としばし色々とびっくりしていた。

 すると彼は突然に「あ、俺のことは先生でいいからね。みんなにそう呼ばれてるから」と僕に言ってグラスを僕の目の前に、コトリ、と置いた。

 そうして箸端氏もとい先生は、僕の向かいにある木製の椅子に座り、僕をここに連れてきた経緯を語りだした。

「いやいや、いきなりで本当に申し訳ない。うん、それでね、なんで君に声をかけたか。うーん、ちょっと最近スランプ気味で。こう、会話にリアリティ?がないねって言われるわけよ。やっぱり物書きで飯食ってる者としては余り芳しくない評価なんだわ。そこで」

 わざとらしく右手の人差し指を立てる。

「この日頃のコミュニケーションの少なさが祟り過ぎな人間嫌いの俺は考えた。誰かと、本格的に、きちんと会話をしてみたらいいんじゃないかって」

 今まで誰とも喋ったことないみたいな言い分だな。

「いや、でも、何で僕なんですか。他にいくらでも人なんかいるんじゃないですか」

「それはー、君が男子高校生だったからだね。あと結構近くに住んでそうだったから。あ、誤解の無いように説明しとくとね、男子高校生にこだわった理由としては、女子ってやっぱりさ、怖いじゃん。あとヘテロな俺にとっては恋愛対象になりかねない。あと高校生が一番話しやすそうだったから。結構単純でしょ。うん、そういうこと。あとは、なんで近所に住んでいるのがわかるのって話ね。それはだって君、毎日あそこの公園行ってるでしょう。いや別にストーキングしてたわけじゃないよ。ここの窓から見えるの。ほら、ここのちょっと大きめの窓な」

 確かによく見える。しかしこの窓も結構な大きさだ。本当になんでこんな豪邸に、という僕の考えは先生の言葉で掻き消される。

「お互い近くに住んでたら結構な頻度で会えるでしょう。それで君に、と」

「ああ、そうなんですか……。でもそんなこと言ってたら、原稿の提出とかどうされるんですか」

「メーラーさんにお願いする」

 そんなこともできるのか。僕の中でメール万能説が登場した。

 そのあとも先生は語り続けたが、申し訳程度の僕の脳みそでは覚えていないことばかりだ。

 そして生憎この日は用事があったので、軽く自己紹介してからさっさと帰った。その帰り際に先生は「また明日ね」と手をグーパーやったので、明日も来いということだろうと半ば呆れつつ家路に着いた。 憧れの師の顔を初めて見られた喜びと、その人が素晴らしいくらいの変人だったことに対する慄きで、僕の胸は一杯だった。

 これが僕と先生の出会いの話。

 他にも話は腐るほどにあるので、思い出し次第書いていこうと思う。

 しかしこの話は、先生が先生ではなくなるところまでのものだ。その先の話は、僕にできるかどうか、今の僕には分からない。

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