第六章 サンディエゴにて 1(DAYTIME)
Oct. 16, 09:33 a.m. PST
Hotel Del Coronado, San Diego, CA
「ん……」
窓から差し込む光で目が覚めた。
普段より心地よい寝覚めに目を瞬いて、肌触りのいい枕に顔を埋め直す。
ウミネコの鳴き声が、広い寝室に穏やかに響いていた。
三十秒くらいそうやってうだうだしていた昋詩だったが、やがて背中を反らしてお尻を持ち上げ、柔らかいシーツに両手をついて伸びをした。凝り固まった全身が朝日に解かれる。
「うん、ん」
顔にかかった前髪をどけて、昋詩はゆっくりと身を起こした。
「ふわぁーあ」
目尻を擦りながら、大きなあくび。そして、
「おはよう。昋詩ちゃん」
「ふわあっ?」
隣のベッドから掛けられた声に、昋詩の大きく開いた口から奇声が漏れた。
まだ眠り気味だった両目がぱっと開かれて、昋詩の身体か跳ねる。昋詩は首をぐるんと横に振って、
「お、叔父さん! おぉ………。おか、おかえりなさい……?」
「ただいま」
まだ呂律も頭も回らない昋詩に、篤は隣のベッドに腰掛けたまま苦笑しながら、
「昨日はよく……眠れたみたいだね」
朝日の差し込む寝室でそう言った。
二台のベッドの間にあるサイドチェストの上で、アンティークに似せた置き時計は三十五分を指していた。
バスローブから私服に着替えた昋詩は、ベッドに腰掛けて微笑んでいた篤を遠ざけると、化粧台の前で髪を梳いて顔に化粧水をつけ、最後にヘアピンで前髪を留めた。篤はその間に、寝室の外で首元からネクタイを外していた。
昋詩の支度が終わると、二人は連れ立ってエレベーターホールへ。高齢のホテルのスタッフが二人に声をかけて、
「ここのエレベーターの扉、手動なんだ」
「百年前にはもう動いてたらしいからね。歴史を感じる」
格子の上に菱形と植物の蔓を組み合わせたような、黄金色に輝くエレベーターの扉がスタッフの手で開かれ、四角い箱が二人を一階まで運び、停止した。ところどころに紅い錆を見せる重厚な扉が再びスタッフの手によって開かれて、二人は古めいた内装の通路を進む。
後期ヴィクトリア様式。
その名の通りヴィクトリア女王のお膝元、十九世紀の英国で発生し、海を渡って合衆国へと伝えられた中世ヨーロッパのゴシックを復古させる建築様式だ。ここ西海岸へは、ゴールドラッシュに伴って広まったと言われている。
〝一律の定義に基づく特定の様式〟を表すのではなく、当時の芸術や文化の傾向を包括して指す広い語ではあるが、それでも特徴らしい特徴は幾つかある。
例えば、産業革命を背景に持つ鉄やガラス、コンクリート製の建造物、中世を意識したデザイン、集合住宅としての縦長屋などが挙げられるが、その中でもホテル・デル・コロナドは一際異彩を放っている。
ヴィクトリア様式の系譜を有する、ザ・デル(ホテル・デル・コロナドの愛称)のトレードマークとも言える赤い三角屋根の塔は、コロナド島の青い海と空と、鮮やかなコントラストを成す。
その尖塔に加え、屋根の赤を際立たせる白い外壁、柱に至るまでの全てが木造で、一八八八年の創業以来コロナド島一のリゾートホテルとして栄え、国定史跡にも登録された歴史的建造物である。
決して華美ではない、落ち着いた豪華さと艶やかさを兼ね備えたロビーや廊下を通って、篤と昋詩は「Sheerwater」というレストランに入店した。
「わあ……!」
白を基調とした明るい店内に、朝日が差し込む。
テラスは直接外と繋がっていて、白いパラソルとヤシの木の向こうにはもう海が見えている。
篤は適当に空いていた手近の二人掛けの席に向かうと、席取りのために整えられていたナプキンを座席の背凭れにかけた。昋詩もそれに倣う。
「じゃ、行こうか」
「あ、うん」
ホテル内には複数の朝食、またはブランチ用のレストランが設けられているが、それでも「Sheerwater」の客足は多く、入店した客はそれぞれに大皿を手に店内を歩き回っていた。
「Sheerwater」では昼食、夕食の時間帯も店を開けているが、朝食に限ってはビュッフェ・スタイル。料理台には地元で獲れた新鮮な海鮮料理を始め、様々な料理がコーナーごとに並んでいた。
二人は料理台の端で大皿を手に取って、料理を取る人の列に並んだ。
「叔父さん、ビュッフェってなにか、気をつけないといけないマナーとかルールってある?」
「細かいのは幾つかあるけど、普段どおりに食べればいいよ。結婚式とか格式のある場じゃないし、昋詩ちゃんは元々お行儀がいいから。誰も気にしない」
「そっか」
褒められて、昋詩は嬉しくなって、
「じゃあじゃあ、食べ終わったら何するの? 今日の日程とか、叔父さんが考えてくれてるんだよね? 楽しみだなあ、初めてのアメリカ! まずは初日のプランをゆっくりじっくり──」
「あー、昋詩ちゃん」
篤ははしゃぐ昋詩の言葉を、ばつが悪そうに遮った。
「……並んでるときに大声で喋るのは、マナー違反、かな」
昋詩の後ろで、いかにも口うるさそうな中年女性が大きな肩越しにこちらを睨んでいるのを見つけて、そう促した。
* * * * *
慎ましく食事を終え、部屋で荷物を纏めた二人はフロントでカードキーを預けて外に出た。
まず太陽と青い空、白い雲が広がり、それから敷地内に植えられた木々や草花が二人を出迎え、順々に観光客の賑わいやホテルの景観、異国の空気が目紛るしく襲ってきた。
「んー。気持ちいいー」
ぐっと伸びをして、昋詩は胸いっぱいにそれらを吸い込む。
朝になり、赤い三角屋根が澄み渡る空にくっきりと浮かび上がっているのが鮮やかに映った。砂浜の方から潮風が吹いて、心地よさそうな昋詩の頬を撫でた。
「それにしても、本当にチップって置いとくんだね」
「最近では受け取らない飲食店とかガソリンスタンドもあるけど、ここは格調の高いホテルだからね。そこは礼式を重んじて」
「ふうん。でも、なんで一ドル札で払うの?」
事前に観光ガイドブックで予習してきたのか、昋詩はそんなことを尋ねた。篤は少し首を捻って、
「んー……。チップってそもそも、客からのサービス、心付けなんだよね。受けたサービスの内容にもよるし、自分が渡したければ幾らでも渡していいんだけど。形式化されてくると、みんな〝安すぎず高すぎない〟お手頃な値段で簡単に済ませようとするものなんだ」
「その値段が、一ドル?」
「そういうこと」
篤は頷いた。
「付け足すと、硬貨で一ドルを作って支払わないのは、お札のほうがお得に思えるから──らしいね。硬貨だと、お駄賃っぽくなるっていうか」
「へえ。そこまで載ってなかった」
昋詩は素直に感心した。
青地のTシャツの上に、前日と同じピンクのジャケットを羽織る昋詩は、庭園のように整えられた通路を足取り軽く進みながら、くるりと振り向く。
「それで、叔父さん。今日のプランはどんな感じなのかな?」
「うん。今日は、分かりやすくテーマパークだとか、動物園とかには行かない。その代わり、昋詩ちゃんに合衆国の、西海岸の雰囲気を味わってもらおうと思ってるんだ」
「雰囲気?」
前日と同じ、白いワイシャツに紺のスラックスの篤に言われて、昋詩は首を傾げた。
「テーマパーク行かないの?」
「そんな顔しないで」
篤は苦笑した。
「えー、なんで? どうしてテーマパーク行かないの?」
小さい子供が駄々をこねるような不満の声に、篤はぴっと人差し指を立てた。
「一つは、最終日に行くロスで、もっと大きなテーマパークに行くから」
「あ、……そうなんだ」
すぐさま、昋詩が安心したような顔を作った。それを見て篤も微笑んで、
「もう一つは、さっきも言ったけど、昋詩ちゃんには有名な観光地を巡るだけじゃなくて、合衆国の素の空気もちゃんと知ってもらいたいから」
「素の……空気?」
「うん。異文化理解とか人生経験って意味でね。今回の旅行が、日本以外の街並みとか、暮らしとか、異国の文化に触れる機会になればいいなと思ってるんだ」
篤はちらりと腕に巻いた時計を見た。それからすぐに、顔を前に戻した。
昋詩は少しの間、呆けたような顔をしていたが、
「……うん、分かった。叔父さんがそう言うなら、きっと私にとって必要なことなんだよね。うん。分かった。覚えとく」
そう言って、頷いてみせた。
篤はそんな昋詩の表情に、どこか満足げな様子でまた微笑んだ。
「それで、これからどうするの?」
二人はホテル・デル・コロナドの敷地を出て、脇を通る道路を歩いていた。
昋詩の背中にはアイボリーのボディバッグが巻かれていたが、篤は何の荷物も持っていなかった。
巨大な木造ホテルを挟んで、白いビーチから潮風の吹きつける青空の下、改めて昋詩が尋ねた。
「まず、この湾を渡って本土のほうに戻る」
「りょーかい。……本土に戻るのは、またバスで?」
「いいや」
短く否定して、篤はくるりと方向転換して再びホテルの敷地へと足を踏み入れた。昋詩が目でその背中を追う。
ヤシの木に囲まれたそこは駐車場で、当たり前ではあるが外国ナンバーの、外国車が何十と並んで停められていた。篤はその一角、雨除けのついた二輪車置き場に向かう。
何台ものバイクが停車しているなか、篤はその機械の藪を分け入って、ポケットから取り出した鍵でひっそりと紛れていた二台の自転車のロックを解錠した。
「叔父さん、これって……」
側までやってきた昋詩が、篤がいま解錠した二台を見下ろして呟いた。
「ああ、レンタル・サイクルだよ。ホテルで貸してるって聞いたから、借りてきたんだ」
「おおー。……これで、あの橋渡るの?」
「まさか」
昋詩の思い至った答えに苦笑しつつ、篤は一方の赤いフレームの自転車を手で押しながら、
「ここから北へ行ったところに、フェリー乗り場があるんだよ。そこからサンディエゴ湾を横切るフェリーに自転車ごと乗船して、本土に行く」
「へえ。フェリーって自転車も乗れるんだ」
はい、と篤に促されるまま、昋詩はシンプルなデザインのハンドルを握ってサドルに跨った。
篤ももう一台の、青いフレームの自転車をバイクの間から引っぱり出して、同じように跨る。そして昋詩へ爽やかな笑顔を向けて、
「昋詩ちゃん、フェリーも初めてだよね。この旅行で、昋詩ちゃんのいろんな〝初めて〟を二人で体験しようね」
昋詩は勢いよく吹き出した。
* * * * *
10月16日(アメリカ時間)
今日は朝目が覚めると、隣に叔父さんがいた。
びっくりして変な声が出た。叔父さんに引かれてないといいけど、叔父さんももうちょっと気にしてくれていいと思う。
また金ピカのエレベーターに乗って下に降りて、海の見えるレストランで朝ごはんを食べた。食べ放題でのマナーがよく分からなくて、少し苦労した。
私と叔父さんは、叔父さんが借りておいてくれた自転車でフェリーに乗って、海を渡った。フェリーも海も日本にあるけど、外国にいるってだけで、どうしてあんなにステキに見えてくるんだろう? なんか映画の中にいるみたいだった。
サンディエゴ湾はいかにもバカンスって感じで、青く光っていた。
フェリーは陸地から突き出した埋め立て地いっぱいの湾をぐるっと回り込んで、「ブロードウェイ・ピア」っていう波止場に止まった。
フェリーを降りてから、私と叔父さんは自転車で街中を移動した。
初めに、船着き場の近くの海洋博物館に行った。世界一古い、今も動いてる帆船とかを見た。泊まっている船にはなんと乗ることができたので、叔父さんと一緒に乗船した。潮風が気持ちよくて、船長室は映画に出てくる海賊船みたいでカッコよかった。
次の場所に行く途中、路面電車が走っているのを見かけた。初めて路面電車を見た。叔父さんに聞いたら、ナントカっていう会社の鉄道と、トロリーっていうバスが走っているんだって。
このあと行ったリトルイタリーにも、トロリーで行けるらしい。リトルイタリーは、イタリアからの移民の人が作った街で、それまでのサンディエゴの風景とは違う街並みだった。行ったことないけど、イタリアっぽかった。通りはとてもキレイで、ゴミひとつなかった。その分、ゴミ箱が多かった。
お昼ご飯にリトルイタリーのピザ屋さんでトマトソースとチーズたっぷりのマルゲリータピザを食べた。ピザ一枚でお腹が膨れるか心配だったけど、アメリカのはやっぱりスケールがおっきい。私は叔父さんの頼んだ魚介たっぷりピザと交換しながら、すぐに満腹になった。
午後はホートンプラザっていうすごく大きなショッピングモールに行った。7ブロック分もある広いモールで、「ホートン」って名前が気が抜ける感じでかわいかった。
初日から荷物を増やさないようにって言われてたから控えめにしたけど、オシャレなブランドを何軒も見て回ったり、日本では売ってないようなかわいい服とか雑貨の店をハシゴして、結構買っちゃった。帰り際、野外コンサートで歌っている金髪の男の人がいて、叔父さんが好きな曲だって聴き入っていた。なんとなく、私も好きな感じの曲だった。
買い物を終えると夕方になっていて、私と叔父さんは夕焼けのサンディエゴの街並みを見ながら海に向かって、私が行きたがっていたシーポート・ビレッジ(ブティックとかがたくさんある)に寄ってから朝とは違う船着き場からフェリーに乗って、ホテルに帰った。
ホテルに帰ってからの夕ご飯のこととかも書きたかったけど、意外と文章が長くなったから、ここでやめとく。ページが残り少ないから、旅行中に使い切ってしまわないかちょっぴり心配。
叔父さんは私を部屋に送り届けて、軽くシャワーを浴びてから、すぐに出かけてしまった。今日も、どのくらい遅くなるかは分からないらしい。
なるべく早くお仕事が終わって、叔父さんがゆっくり休めますように……。
明日も、楽しい旅行になりますように。
おやすみなさい。
* * * * *
Oct. 16, 09:01 p.m. PST
Hotel Del Coronado, San Diego, CA
昋詩は丸いテーブルから腕を離して、びっしりと書き込んだ手帳サイズの日記帳を閉じ、それを自分の鞄にしまってから寝室の間接照明を消した。
部屋は一気に真っ暗になって、しんと静まり返る。
昋詩は低く厚いソファから腰を上げると、パジャマの裾を直してベッドに凭れ込んだ。カーテンを開けたままの窓の外には夜の黒い海が見えるはずだが、街灯が少ないせいか輪郭すら捉えられなかった。
数分間ベッドの上で寝つけずにいた昋詩だったが、やがて何の音もしない夜に身を委ねるように、静かに眠りに落ちた。
「………叔父さん」
口から漏れた言葉は、枕元に零れて消えた。
こんにちはこんばんは。
桜雫あもる です。
長らくお待たせしてしまいました。久し振りの『優しい殺し屋の不順な事情 Ⅱ』更新です。
自分の行ったことのない地域への旅行の風景を書くのが、こんなにも難しいものとは思いませんでした。旅の情報雑誌や書籍、ネットを駆使しましたが、それでもやはり細部を、それも逐一読み応えがあるように描写することは、困難を極めました。
というかぶっちゃけ、出来ているとは思えません。
いくら有名とはいえ、一ホテルの、一内装がどうとか分かるわけないじゃないですか。
これは所謂〝逆ギレ〟というやつです。
新年度を迎え、自分の通う大学のキャンパスにも桜が咲き誇り、新入生がやってきました。
上回生となった今、学業でも部活動でも「やらなければならないこと」はてんこ盛りになりました。大変です。
優しい殺し屋と姪の旅がいつ終わるのか、自分にも分かりません。が、いつも待ち遠しく思ってくれている(主に身内の)皆さんには、これからも長い目で見守っていただけたらと思います。
もう一方の『ほうき星エプリ』の方も、続きを書かないといけませんしね。
とにかく全部頑張ります。
参考文献は、『地球の歩き方 アメリカ西海岸』(2014〜15年度版、ダイヤモンド社)、『新個人旅行 アメリカ西海岸』(’08〜’09、昭文社)とインターネットの公式HP、個人ブログの旅行記などです。
ご一読ありがとうございました。