第四章 航空の果敢
『Attention please. This is the announcement for SSA Airlines flight 3694 to San Diego. We will begin boarding in approximately 50 minutes. Would all passngers please……』
早朝の光が照り渡る広い空間に、はっきりとした発音が響き、人の波の行方を操舵する。
青白くも感じられる反射光で埋め尽くされた四階建ての建造物は、銀色に輝く身体のなかで人や物の流れを段々と複雑にしていく。
見上げれば、四階分以上に間隔を空けて佇む高い天井。膨大なそれは芸術性のない支柱などではなく、野球のスタジアムのような、幾何学的な造りの外壁によって支えられていた。
昭和時代の未来への憧れを、現代風に洗練して現実にフィードバックしたような、そんな不思議な圧がそこかしこから感じられる。
一段と強く、突き刺すように光が差し込む最上階は、区画がきれいに、四角と通路の組み合わせで切り分けられている。
アルファベットで番号がつけられた詰め所が複数並び、その奥にはガラスの壁で四方を囲まれた保安検査場、そのゲートが鎮座する。重そうなスーツケースの類いは、横に並んだ詰め所で預けられていった。
それらに行列し、順路を通って進む雑多な人々の群れは、順次指示に従ってゲートを通過し、そこからまた下の階へと下ってゆく。
広大な施設内に調子のよいアナウンスが鳴り続けるなか、一組の男女が、いま長いエスカレーターを下った。
「あ、いま〝SSAエアライン〟って言った。〝スリー・シックス・ナイン・フォー〟って、私たちの乗る便だよね?」
「昋詩ちゃん、リスニング能力がまた上がったね」
スーツケースを預け、手荷物検査を通過した二人は、再び小規模の商店が並び出した通りへ降り立った。
片方は薄いピンクのジャケットを羽織った、高校生くらいの少女。
インナーにクリーム色のシャツを着て、胸の上で真横に走る赤、青、緑のラインを強調するようにジャケットの前を開いている。ベルトを締めたブラウンのミニスカートの下から黒いぴったりとしたスキニーパンツを覗かせ、足元には先端にリボンをあしらったローファー。
足元の様子から察するに、丸みを帯びたローファーは僅かに底上げされているようだ。
どこか大人びて見える少女は細身で背が高く、適当なファッション雑誌の特集ページに紛れ込んでいたとしても、さほど違和感はない。
もう片方は、ラフなワイシャツを袖のところで捲った、二十代半ばから後半くらいの男。
ネクタイは着用せず、極細の青いストライプが白いオックスフォード(縦糸、横糸を二本ずつ引き揃えて平織りにしたもの)の生地をまっすぐ縦に走っている。長い脚は紺のスラックスに収まり、足元だけは、スーツに合わせる品ではなく薄い藍の革靴だった。
二人の手荷物はそれぞれ必要最低限の物を入れる程度の小さな鞄で、少女はアイボリーのボディバッグを胴に巻き、男の手に持つそれは黒塗りで、形状としてはブリーフケースに近かった。
少女も年頃の割りには長身だが、隣を歩く男は更に一回り、二回り背が高い。
傍から二人を見る渡航者の幾人かは、その関係を一目で判断しきれずに訝しげな顔を向けた。
「叔父さんのおかげだよー。叔父さんが海外で働いてて寂しいけど、唯一のメリットは英語をカンペキに教えてくれることだね」
ふふん、と自慢するように少女──昋詩は胸を張って鼻を鳴らした。
「このあいだの英語のテスト、九十点超えてたの私とカナちゃんと遠治くんだけだったんだよ」
「そうなんだ。すごいね」
驚いて、隣の男──篤は微笑む。
「じゃあテスト頑張ったご褒美に、旅行中のおねだりを規制緩和しようかな」
「わ、ほんと? たしかショッピングモールとかも行けるんだよね?」
「うん。初日にも行く予定だけど、荷物が大変だから最初は抑えてね」
「オッケー!」
元気よく昋詩が返事をする。
それと同時、厚い窓の外から唸るように、低いエンジン音が鳴り渡る。
轟音は窓ガラスや空気を振動させながら激しさを増し、大きく旋回し──青空へと飛び立った。
その一部始終を、昋詩はガラスの内側から見守る。
二人は、旅行に来ていた。
* * * * *
昨晩のこと。
「昋詩ちゃん。旅行のことで、話があるんだ」
シャワーを浴びた篤は、既に寝間着に着替えてリビングでテレビを観ていた昋詩に話しかけた。
「うん。なに?」
買ってきた観光雑誌と、〝旅行日程予定! 昋詩&篤〟と銘打たれたノートをテーブルの上に置いて、昋詩は会話に応じる。
篤は昼間と同様、向かいのソファに腰を下ろした。
テレビのリモコンを手にとって、音量を下げる。
「夕方にも話したけど、旅行の日程中に、僕は仕事に行かなくちゃならない」
「うん」
「さっきも上司と話をしてきたんだけどね。ようやく話が纏まったんだ」
篤が苦笑した。
それから、テーブルの上の昋詩の書いたノートに楽しそうに目を通す。
「行きたい場所のアクセスを調べてたのか。……うん、いいね。内容が濃くて楽しそうだ」
昋詩は黙って、篤の次の言葉を待った。
「……夜に、仕事に行くことになる」
「え?」
思わず、昋詩は訊き返した。
「昼間は昋詩ちゃんと一緒に楽しく観光をして、夜のあいだに仕事をする。そういうふうに、融通を利かせてもらったんだ」
昋詩は、得も言われぬ感覚に陥った。
「……どういうこと?」
「元々、仕事はクライアントの都合で夜間にだけ行う予定だったんだ。昼間には単独で処理関係の事務があったんだけど、そこを同じ仕事のできる同僚に変わってもらって、朝から夕方にかけて時間を作った」
「そう、なんだ」
昋詩は納得しかけて、考え直し、
「……えっ、じゃあ叔父さん、お休みは? 寝る時間は? 泊まるところは?」
止め処ない昋詩の追及に、篤は昋詩の作ったノートを眺めながら答える。
「ホテルは各地でちゃんとしたところを予約するよ。心配しないで。僕の寝る時間だけど、夜間の仕事が終わり次第僕もホテルに戻って、ベッドに入るつもりなんだ。最悪、会社の仮眠室で休憩をとってから、朝一番で昋詩ちゃんの部屋まで向かうよ」
「そっ……そんな!」
昋詩はばんと立ち上がって声を荒げた。
「叔父さん、そんなのじゃ休めないよ? そこまで無理しないといけないなら、やっぱり旅行は……」
「大丈夫だよ」
ぴしゃりと、穏やかな声で篤は言い張った。
「仕事柄、体調は毎日セルフケアしてるからね。昼間の観光に、支障は出ないようにするから安心して」
「そ、そうじゃなくて……」
言いたいことを伝えられず、昋詩は惑った。
「……それなら、それなら昼間の電車とかの移動中に、ちゃんと休憩とるようにして。ね?」
「そんな。せっかく昋詩ちゃんと旅行するんだから、道中の景色だって一緒に楽しまないとダメだよ」
「うぅ………」
あくまで真摯な篤の言葉に、昋詩が呻きを漏らす。
「とりあえず、今晩中に昋詩ちゃんが行きたい所をなるべくたくさん回れるように、効率のいいスケジュールを考えておくよ。チケットの手配は会社がやってくれるから、急で悪いけど、昋詩ちゃんは自分の荷物をまとめてくれる?」
今夜も一晩中、休むつもりはないらしい篤の言葉に、昋詩は肩を落として嘆息した。
「……叔父さん。旅行から帰るまでに過労死、なんて……私やだからね?」
* * * * *
「じゃあ、ちょっとだけ向こうで仕事の電話かけてくるね」
そう言うと、篤は申し訳なさそうに小走りで人の往来を横切っていった。
背の高い影はすぐそこの売店の角を曲がって、どこかへ姿を消す。
昋詩はそれを最後まで見届け、笑顔で手を振ってから、手近にあった待合ベンチにどかっと腰を預けた。ベンチには他にも搭乗の時間を待つ人がちらほら見受けられたが、似たような設備がブロックごとに複数用意してあるため、混み合うということはなかった。
暫く、篤の去った方向を眺めてから、昋詩は胸の前のボディバッグから一冊の文庫本を取り出した。
文庫本は手製のブックカバーに覆われて、外見からその内容を推察することはできない。
大して厚くもない小さな本の、栞を挟んでいたページを開いて、昋詩は読書を始めた。
栗色の瞳が活字を追い始めて、十分が経った頃。
再び施設内に鳴り響いたアナウンスを合図に、昋詩は一向に戻らない篤が気がかりになってページから顔を上げた。
再度、篤の去った方向へ目をやるが、そこにはまだ篤の姿は見受けられない。
昋詩はもうそろそろ、売店の向こうから篤が来はしないかとじっと見つめていたが、その気配はなかった。
「……実は理科と数学の点は、あんまりよくなかったんだけどな」
文庫本をボディバッグにしまい、昋詩は簡素なベンチから立ち上がった。
「旅行が終わってから言えばいっか」
ジャケットのポケットから、パールピンクのスマートデバイスを取り出し、そのボタンを押そうとして、
「……あ、そっか。叔父さん電話中だから、かけても意味ないのか」
思い直して元の場所へしまった。
とりあえず、行き違いにならないよう十分に気をつけながら、昋詩は篤の消えていった売店の近くまで行くことにした。
角の売店では、ペットボトル飲料のほかに、おにぎりや軽食、スナック類が提供され、店先には簡単なお土産用のストラップが引っかけられた回転式ラックが並び、店舗を賑やかに印象づけている。
敷地は一般のコンビニエンスストアの半分といったところだが、集客は上々らしい。昋詩がそちらへ向かうあいだにも、一人、また一人が軽食のうまそうな匂いに誘われて、ちょっとした空腹を満たそうとカウンターへと足を運んでいた。
どこかへ向かう便の搭乗時刻が迫っているのか、段々と人の波が密になってきた。
昋詩が人と人の間をうまくすり抜けようと苦心していると、
「えっ」
突然、昋詩の脹ら脛に向こうから走ってきた小さな塊がぶつかった。
塊は、衝撃に抗えず通路へと倒れ込む。
「だ、大丈夫?」
「Oops……… .」
昋詩の脚にぶつかったのは、年端もいかない男の子だった。
背丈からすれば、歳の頃は三歳から四歳といったところ。
「立てる?」
「No problem…… .」
昋詩がしゃがんで差し伸べる手には頼らず、ゆっくりと小さな身体を擡げる男の子の髪は、鮮やかな金髪だった。
ぷっくりとした人形のような目口に、キッズ用品であろう明るい色の衣服や靴を身につけている。
わずかに潤んだスカイブルーの瞳が、昋詩の顔を見上げていた。
「ごめんね。……痛いところはない?」
昋詩は、日本語では通じないと悟り、言語を英語に変更した。
決して流暢とは言えない発音ではあったが、昋詩の言わんとすることは無事少年に伝わったようで、
「……痛い。けど、だいじょうぶ」
涙目で、少年は昋詩にそう返した。
昋詩は自分の英語が幼い子供にも伝わったことと、少年が一人で立ち上がれたことに安心して、ほっと息を吐いた。
それからもう一度、
「ごめんね。私がよそ見してたから、ぶつかっちゃったね」
謝り、少年の頭を撫でた。少年はふるふると頭を振って、
「ううん。僕も、その、ごめんなさい。人がいっぱいいるところで走っちゃったから」
「ちゃんと謝れてえらいね」
もう一度昋詩は少年の頭を撫でた。
少年は気持よさそうな顔を見せた。
そこでふと、昋詩は辺りを見回す。
「きみ、一人? ママはいないの?」
「いるよ。でもいまはいない」
「?」
少年の返答に昋詩が首を傾げる。
そのとき、
「カール! どこ?」
人混みの向こうで、女性が叫ぶのが聞こえてきた。
言語はネイティヴな英語。
「カール坊や、ママはここよ! どこにいるの? チャーリー!」
焦りを帯びた女性の声は、うろうろと周囲を忙しなく彷徨く。
「もしかして、ママ?」
「うん」
少年はそう頷いて、昋詩に背を向けた。
蠢く大人たちの足元を掻き分けて、昋詩が声をかける間もなく、その小さな背中は消えてしまう。
昋詩は心配そうに少年の行方を見守っていたが、暫くして、
「カール坊や! ああ、チャーリー……! どこに行ってたの? 心配したのよ!」
先程の女性の、嬉しそうな声が響いてきた。
何事かと立ち止まる人たちの作る壁の後ろで、昋詩はお尻のところで手を組んで、そっと微笑んだ。
「よかったね、カール坊や」
「なにがよかったの?」
「うぇっ」
背後から突然届いた声に、昋詩の口から思わずおかしな声が出た。
聞き覚えのある声に振り向く。
「あ、叔父さん!」
「遅くなってごめんね」
そこには、片手を立てて申し訳なさそうな顔をした篤が立っていた。
篤は周りにできた人集りを見て、
「僕がいないあいだに、なにかあったの?」
そう訊かれて、昋詩は後ろを振り返った。
相変わらず人の往来が絶えない広い通路の真ん中で、女性の腕に持ち上げられているふわふわの金髪が、ちらりと見えた。
昋詩は答える。
「ううん。なにもなかったよ」
* * * * *
出国審査、搭乗ゲートを難なく通り抜けた二人は、搭乗橋を経て、大きな旅客機の体内へと足を運んだ。
千切られた搭乗券に記載された番号を見て、客室乗務員の女性が二人に指示を出した。二人はそれに従う。
昋詩が先に通路を進み、左右に分かれた座席の上、オーバーヘッド・ストウェッジ・ビン(共用収納棚)脇に添えられた座席番号を見ていく。
だが、
「あれ? ないよ」
前方の区画は、昋詩のいる場所で最後尾だった。
昋詩の探していた番号はそこまでにはなかった。
「昋詩ちゃん、こっちこっち」
首を傾げている昋詩の背後をすり抜けて、篤は更に後ろにある区画に足を踏み入れる。
「え? でもそっちって……」
昋詩が不安そうな顔を向ける。
「大丈夫。ほら、この席だ」
篤はオーバーヘッド・ストウェッジ・ビン脇の番号を確認して、窓側に座りなよ、と昋詩を手招きした。
ごたごたと、前の区画の座席に荷物を置いたり座ったりを始める他の乗客たちを顧みつつ、昋詩はおずおずと篤の下へ向かった。
数人がそちらを見た。
篤に見守られ、窓のすぐ横の座席に腰を下ろした昋詩は、
「ここビジネスクラスだけど……、いいの?」
「うん。さっき、部長が急遽手配してくれたんだ」
昋詩の隣、同じく広い座席に座りながら、篤は楽しそうに話す。
「手続きには時間がかかったけど、十時間も窮屈な席にいるよりは、ね」
「じゃあさっき遅かったのは、それでだったんだ」
「うん。連絡しなくてごめんね」
「そんな。むしろお礼言わなきゃ」
昋詩は座席の座り心地を楽しみながら、簡単に笑い飛ばした。
そして、
「お客様、間もなく当機は離陸体勢に入ります。安全ベルトを締め、お荷物を前方座席の足元の奥にお入れください」
素敵な笑顔の客室乗務員に窘められた。
陶磁器の器に、小分けにして出された温かい機内食を平らげた昋詩は、食後の小さなケーキをお腹に入れて、やがてうとうとし始めた。
旅客機が離陸して、二時間は経ったかという頃だった。
機体はまだ、茫漠とした太平洋の只中を進んでいる。
高度は三万三千フィート。
気流の乱れもなく、安定したフライトが続いている。
機内の照明は既に薄暗く、疎らに見える座席ごとのライトだけが細々と照っていた。篤は気持ちよさそうに眠りに落ちた昋詩の横顔を確認してから、自分もまた目を閉じようとした。
そこで、
「こちら鷹。日本からサンディエゴ行きの便にうまく乗り込んだ」
近くから、ぼそぼそと話す男の声が篤の耳元に届いた。
言語は英語。
「SSAエアラインの3694便だ。そっちはどうなってる」
篤は目を開けた。
声のする通路のほうを目だけで追うが、声の主は見当たらない。
その方向には公衆衛星電話がないことを、篤は知っていた。
「ああ。じゃあ、西海岸で落ち合おう」
不穏な雰囲気を孕んだ男の声は、通話中と思しき相手に別れの挨拶を返した。
そちらに少なからざる注意を払いながらも、篤は身体にかけた毛布の位置を直して再び目を閉じる。
「しかし、俄かには信じ難い話だな」
篤の意識の最後に、男の不審そうな声が滑り込む。
「俺たちが乗っている機のどれかに、CIAのスパイがいるってのは本当なのか?」
篤の閉じた眼が、しっかりと開いた。
HLuKiは頭を少し上げ、正規の回線を介さない通話を終えた男が戻った座席を特定した。
男の風貌をしっかりと頭に焼き付けると、HLuKiは隣で眠る少女を顧みることなく、キャビン後方にある公衆衛生電話の元へと迷わず歩いていく。
見知った携帯電話番号をプッシュし、コール音の奇妙な途切れを聞き届けてから、間諜は通話に応じた男へ短く区切った言葉を告げる。
「灰色の厚手のジャケット、紺のジーンズを穿いたスキンヘッドの白人。瞳の色は灰色、背は僕と同じくらい。僕と同じ便に乗っているこの男を、サンディエゴ国際空港で外部との連絡を取られないよう拘束してくれ。事件の重要参考人になる」
電話口の男が短く了承したのを聞き届けて、HLuKiは手早く通話を切った。
そしてそのまま、元来た通路を引き返し、毛布に包まれて眠っている少女の脇を一瞥もせず通り過ぎて、はじめから空席だったエコノミークラスの座席へと腰を下ろす。
HLuKiはそこで、浅い眠りに就いた。
こんにちは。
桜雫あもる です。
今回は本編の注釈とかを入れなければならない内容もないのですが、ちょっと驚いたことを。
飛行機の便名に使われる数字についてです。
あれ、劇場版コナ○かなにかで行きと帰りとで奇数、偶数が分かれてるって聞いた覚えがあったのですが、小説を書くに当たって一応調べ直してみると、驚きの新事実が発覚しました。
なんと、国際便では西→東に行く便は偶数番号、東→西に行く便は奇数番号、というふうに決まっているのだそうです!
知らなかったあ。
ということで、筆者は日々下らない知識を蓄えながら、忙しく悩ましい日々を送る傍ら、遅々小説を書き続けるのです……。
それでは、引き続き『優しい殺し屋の不順な事情 Ⅱ』をお楽しみください。