第三章 間諜の受難
「サンフランシスコ、ロサンゼルス……これは知ってる。それから……サンディエゴ? 聞いたことあるような……。なんかいっぱいあるね」
──日本、都内某所。
住宅街の真ん中に聳え立つ高層マンションの上層で、少女が観光雑誌を広げながら言い添えた。
室内は白い壁紙に囲まれて、大きな窓から明るい日差しが差し込んでいた。
おしゃれにデザインされた六角形のガラステーブルや収納棚、五十インチの薄型テレビ、奥には対面式のキッチンスペースがゆとりをもって配置される。
壁には幾つもの写真が額縁に飾られている。
テーブルを挟むようにして並ぶ淡いオレンジのソファにそれぞれ腰かけているのは、殆どの写真に並んで写る二人だった。
片方、壁際に背を向けて座るのは十六、七の少女。
檜皮色のストレートヘアの前髪にヘアピンを付け、顔立ちはやや面長。
体型は細身で、前面に大きく猫の顔がプリントされたルーズフィットのルームウェアを着ている。下はだらりと垂れた猫の口に少し隠れて、ふわりとしたキュロットが素足を僅かに覆う。キュロットの下部では緩いゴムが、細い太ももを締めている。
楽しそうに輝く瞳と微笑む口元が、少女の人柄を如実に表していた。
少女は雑誌から視線を上げて問う。
「叔父さん、オススメとかってない? カリフォルニアでお仕事してるんだよね?」
「そうだな……」
それに答えたのは、対面に座る男だった。
歳は二十代半ばから後半に見える。黒い短髪に柔和な瞳。
男の服装は実に簡素で、襟のついたメッシュ地の白いシャツに黒のスラックス。
背は高く細身だが、線が細いという印象はなかった。
身体は寧ろ若々しく、壮健な部類といえる。
その顔立ちや会話から、少女とは血縁関係──叔父と姪の関係であることが窺える。
男はソファの上で腕を組んで、ちょっと唸った。
「情報はいくらか入ってくるけど、基本は仕事をしてるだけだからなあ。観光とかはしないし、できるだけ日本にいるようにしてるし……。行くとしても、州都のサクラメント市の中だけだよ」
「そこはダメなの?」
どきり、と男の喉が干上がった。
「……いや、サクラメントは緑があるだけのただの都会だから、観光には向かないと思うよ、うん。やめたほうがいいかも」
「?」
男の反応に首を傾げつつ、少女はソファに沈める腰の横に置いていた、パールピンクのカバーを装着したスマートフォンを手に取った。
細い指先で画面をスライドしたりタッチしたりして、一定の作業を行う。
「……昋詩ちゃん、なにしてるの?」
スマートフォンの画面が見えない男は、素直にそう尋ねた。
「さくら……なんだっけ、サクラミント?」
「サクラメント」
「あ、それだ」
返答を受けて、昋詩は戸惑っていた指を景気よく動かした。そして表れた結果を見て、顔を綻ばせる。
男が対面からその画面を覗き込んだ。そこには、
「………」
「いいところじゃん、サクラメント!」
男のよく知る緑の街並みが、高画質で表示されていた。画像検索だった。
少女が画面をスクロールすると、単なる緑色の都会の街中の風景だけでなく、公共図書館やタワーブリッジ、旧市街といった、いかにも観光客受けしそうな画像が次々に流れる。
昋詩は頭上の男へと首を向けて、
「あたし行ってみたい! 叔父さんが、どんな所でお仕事してるのかも見てみたいし」
「えっ、ええぇ……?」
爛々と目を輝かせる昋詩に、男はたじたじになるしかなかった。
電子音が鳴った。
単発では終わらず、一定のメロディを成して電子音は白いリビングを蹂躙した。
「ごめん、僕だ」
男はそう言うと腰を浮かして、スラックスのポケットに手を突っこんだ。
中から滑り出たのは、少女が持つのと同じ機種のスマートフォンだった。形も大きさも同じで、唯一カバーの色だけがパールピンクでなくアイアンブルーと異なる。
画面を見て着信があったことを確認した男は、
「………?」
そこに「非通知」の文字を見つけて、怪訝な表情を見せた。その顔が徐々に険しくなる。
そしてすぐに顔の緊張を解き、昋詩に断ってリビングを後にした。
明るいリビングに一人取り残された昋詩は、再び観光雑誌に目を落とした。
「叔父さんが行きたそうな所、あるかなー」
* * * * *
会話の内容が室内の昋詩に聞こえないよう、廊下に出て十分に距離をとった男は、スマートフォンに表示された通話アイコンをタップして、画面を耳に当てた。
「……もしもし」
『やあHLuKi。電話を取るのが少し遅いんじゃないか?』
耳元に届いたのは、低い男の声だった。
合衆国の英語だった。
HLuKiと呼ばれた男が顔を顰める。
『いや、今は休暇中だから〝篤〟と呼んだほうがいいかな』
「……なんの用ですか部長。僕が提出した休暇届に目を通して頂けているなら、こんな番号にこんな電話はかかってこないはずですが」
『そう邪険にするな。悪かったよ』
男──HLuKiとも、篤とも呼ばれる彼は、言語を英語に変更して会話に応じる。
『実は急用でな。どうしてもおまえに伝えなければならないことがあるんだ』
「仕事の話なら、普段そっちで使っている番号にかけてください。……というか、どうしてこの番号を知っているんですか」
『君は休暇の間、仕事用の携帯電話を一切見ないだろう。そうすると、休暇明けまでこちらからは連絡がとれないわけだ。それでは困る』
篤は眉間にしわを寄せた。
『それと番号の件だが、個人情報を不法に調べ上げたことは謝ろう。この番号は、私のこの携帯電話にも一切残さないことを固く約束する。君が長期休暇中も仕事用の携帯電話をチェックしてくれるならな』
「……要件はなんですか? いま忙しいんです」
『ああ、そうだったな。本題に入ろう。──おまえに、急ぎの依頼が入った』
「………仕事ですって?」
篤の口から、自分でも驚くほどの嫌厭の声が出た。
『そう嫌そうな声を出してくれるな。──CIAの情報が盗まれたニュースは見たか?』
「ええ。朝のニュースと、ネットのニュースで」
うむ、と電話の声は言葉を区切った。
『あれについて、CIA長官から直々に依頼が来た』
篤は首を傾げる。
「ブラウン長官から? どうして僕に?」
『なんでも、人的諜報専門の捜査官の手が足りないそうだ。今までの協力実績のほか、FBIでのおまえの活動がNSA経由で評価されたらしい』
「はあ……」
篤が気の抜けた返事を返した。電話の声は構わず、
『依頼内容は、CIAのある捜査官とチームを組んで、人的諜報に当たってほしいとのことだ。場所はカリフォルニア州内の各地域。時間帯は、そのチームを組む捜査官の都合上、夜間だけでいいそうだ。報酬は仕事次第。先方は、できるだけ早く来てほしいと言っている』
「そんな………」
廊下の奥で、篤は肩を落とした。
「……それは、今すぐにやらないといけない依頼ですか?」
『こちらとしては、おまえの休暇はもちろん有効だ。が、事が事だ。向こうも早急に対処したいのは当然だろう』
「そもそも、なんのための諜報なんです? CIAから情報を盗んだ相手というのは、僕のような殺し屋まで使って迅速に対処しないといけないような連中なんですか?」
『それなんだがな。かなり大ごとになりつつあるらしい』
耳元から溜め息のような音が短く聞こえた。
篤は二の句を待つ。
『CIAのサーバから情報を盗んだのは「砂上の狐」という小規模のサイバーテロ組織だということがNSAによって確認されている』
「『砂上の狐』……聞いたことありません」
『だろうな。私もつい先日まで名前しか知らなかった』
「そいつらは、なんの情報を盗んだんですか?」
『それについては、先方は詳しく開示するつもりはないらしい。ともかく、〝反米組織にとって非常に有利な情報〟ということだけは確かだ』
「………?」
『続けるぞ。「砂上の狐」自体は大した力もないグループで、犯罪組織のデータベースでも常に中の下程度の地位にあったらしい。だから今回の件も、CIAは早期解決を見越していた』
「でも……そうはならなかった?」
『ああ』
電話の声が太平洋の向こうで頷いた。
『CIAが捜査を進めるうちに、「砂上の狐」のバックにある組織がいることがわかった』
「反米ですか?」
『うむ。反米、というよりは……宗教統治排斥主義を掲げる過激派のトップだな。〝宗教性と国政が結びつくことは、民の不幸に繋がる〟として政教分離の徹底化を考えている連中だ。合衆国への敵対心はそれほどでもないが、大統領が就任時に神に誓いを立てることから反発、部分的に反米の側面も持ち併せている』
篤には、その解説に心当たりがあった。
息を呑みながら、そのアクロニムを口にする。
「まさか……AWAですか?」
『そう。血気盛んな平和主義、Acceded World Associationだ。国籍不問の秘密結社で、無宗教ならば誰でも受け入れる。合衆国内にも、まだ明かされていない構成員は多いと聞く』
少しの間、篤は絶句した。
そして考えて、
「………今回の依頼は、〝『砂上の狐』から盗まれた機密情報が、AWAの手に渡らないようにする〟……ということなんですね」
『その通りだ。流石だな』
篤は褒め言葉を無視した。
「もしも、『砂上の狐』からAWAに情報が渡ってしまった場合……なにが起こりますか?」
『……一概に〝こういうことが起こる〟、というのは私の口からは言えんな。情報が不足している。ただ、合衆国の今後を大きく揺るがす事件が起こるのは……おそらく間違いないだろう」
「…………」
篤は苦悶の表情で熟考した。
「アルカトラズ島……って、ん? 刑務所なの? 入っても怒られないの?」
〝アル・カポネの亡霊に会おう!〟。
そう大きく見出しのついた観光雑誌のページを開いて、昋詩は首を捻った。
白いリビング、壁側のソファにたった一人で、少女はまだ同じ雑誌を眺めていた。
一頻りページの解説を黙読して唸ったあと、昋詩はふと思い出したように呟く。
「叔父さん、まだ電話終わらないのかな」
心配そうに、空きっぱなしになったリビングのドアの隙間を眺める昋詩をよそに、篤と電話の声の通話は続く。
「なぜ、僕なんです? そんなに大変な状況なら、関係機関に助力を申し出ればいい話じゃないですか」
『それがそうもいかん』
電話の声はそう否定した。
『昨今予算が削減されつつあるCIAとしては、これ以上自分の失態を晒すわけにはいかないだろう。この件はなるべく、自分たちだけで解決したいはずだ』
「なら………」
『現在協力体制にあるNSAは電子諜報専門で、精度の高い人的諜報の技術に関してはCIAにやはり劣ってしまう。そこで、人的諜報の技術と〝合衆国の敵を正式に殺す権限〟を持ったおまえが選出されたというわけだ』
「ちょ……ちょっと待ってください!」
篤は、思わず声を荒げた。
「そうすると……僕はこの件で、正式な殺害依頼もないのに、誰かを殺さないといけない、ということですか?」
『場合によっては、だが。そういう事態もありうることを想定していてくれ』
「……殺し屋は、そんな秘密警察みたいな真似は許されていないはずです」
篤は弱く反論したが、
『CIAの計画に参加する時点で、会社社員という特殊な立場にあるおまえは、一時的にCIA捜査官と同等の権限を持つことにもなる。あとは───わかるな?』
「………」
篤は返事をしなかった。
しようがしまいが、自分に与えられた業務は、なに一つその決定に変更のないことを、よく知っていた。
『そういうわけだ。今回の休暇は、また別の機会に取り直してくれ。明日、こちらの用意した航空券でサンフランシスコへ飛んでもらう。その他の内容は──』
「ま、待ってください!」
『ん?』
「あの、さっきも言ってましたけど──どうして、西海岸なんです? CIAの本拠地はヴァージニア州では?」
『なんだ、そんなことか』
拍子抜けしたように、電話の声が嘆息した。
『いいかHLuKi。サイバー戦に、位置も距離もない』
その一言を聞いて、
「……つまり、『砂上の狐』は西海岸からハッキングを仕掛けて、まだなお西海岸に潜伏している、と?」
『ああ、少なくともCIAとNSAはそう睨んでいるようだ。詳細な作戦内容は後で確認してくれればいいが、先方は最終的に、西海岸から東へ飛ぶ隙を取り押さえたいらしい』
「…………」
『とりあえず、詳しいことは仕事用の端末に送信してある。今後のやりとりは合衆国にいるときと同じく、そちらのスマートデバイスを使用してくれ。うちの情報保護プログラムによって適切なプロテクトがかけられているから、いちいち盗聴を疑う必要もない』
「この電話、まずいんじゃないですか?」
はたと、気づいたように篤は確認をとった。
電話の声は慌てた様子もなく、
『安心しろ。私の〝携帯電話〟はかなり弄ってある。エシュロンにも引っかからない設定にして電話をかけたから、この通話は記録には残らない』
「………そうですか」
さらりと合衆国驚愕の事実が暴露されたが、電話の声の並み外れた情報力を知る篤にとっては、今さら驚きなどなかった。
『また数時間後にかけ直す。そちらでは真っ昼間だろうが、こちらは深夜なんでな。じゃあ──』
「あの、」
通話を打ち切ろうとした電話の声を、篤は遮った。
その声には躊躇いの色があった。
『なんだ』
「……その依頼、他の方に回していただくことはできませんか」
『馬鹿を言うな。うちから出せる諜報する殺し屋は、おまえしかいないんだ』
「GramPaさんや、Dbだっているじゃないですか」
『彼らも確かに有能な諜報する殺し屋ではある。が、君ほど機動性に長けているわけではない。今回の件には、スパイとしての能力のほかに、柔軟かつ迅速に事態に対応できる体力が不可欠になってくる。その辺を考えての人選だろう。先方から、指名があったんだよ』
「なら……」
ほかの交渉材料を探そうとして、
『HLuKi』
電話の声は、ぴしゃりと言い放った。
『いつまでもなにを、駄々のようなことを言っているんだ。これは映画じゃない、本物の合衆国の危機なんだ。それを阻止できる立場にいるおまえが、単なる個人の恣意だけでその義務を放棄するとは、なんたる職務怠慢だ』
「…………」
『固より社会人ならば、休日に急な仕事が入ることくらい甘んじて享受しなければならない。そんなことは、常識だろう』
「……はい、部長」
『ましてやおまえは、合衆国の平和を守るという特務を負った殺し屋なんだ。──どんな事情があっても構わない。合衆国の平穏のために、暗躍しに来い。HLuKi』
* * * * *
「あ、叔父さん。やっと電話終わったの?」
廊下から戻ってきた篤に、昋詩は肩越しに嬉しそうに声をかけた。
「……うん」
篤は力無げに返事をする。
篤が電話の声と話し込んでいるあいだに日は少し傾いて、白いリビングに差し込む光はほんのりと橙色を孕んでいる。
昋詩は篤の力無い声を聞いて、目敏くなにかに気づいたようだった。
「……なにかあったの?」
眉根に小さくしわを作って、対面のソファに座ろうとする篤へ問い質す。
「ん」
篤は短く、撥音を漏らした。
腰を下ろす動作に淀みはなく、ただ篤は目を瞑った。
腰かけた篤は、申し訳なさそうに昋詩の顔を上目に見て、
「……実はね。旅行の……話なんだけど」
「うん」
「その……僕から誘っておいてなんなんだけど」
「お仕事?」
さくりと、昋詩が出なかった言葉を補う。
「………うん。そう、急な仕事が入っちゃったんだ。せっかく昋詩ちゃんの連休にも合わせて旅行しようって言ってたのに、ほんとにごめん」
「そんな、お仕事なら仕方ないよ」
篤は首を横に振った。
「次、いつ休みをとれるかわからない。いつも家で独りで寂しい思いをさせてる分、昋詩ちゃんとの家族の時間をちゃんと過ごしたかった」
「お、叔父さんってば……」
俯いた篤の言葉に、昋詩は慌てて自分の脚を見つめた。
互いがそれぞれの理由で俯いて、大きな静寂があった。昋詩はときどき、篤の苦悶するような表情を覗き見て、悲しそうに目を背けた。
やがて、ぽつりと、
「……それなら、叔父さんとの旅行はお預けだね。私は私で予定入れておくから、叔父さんは気にせずお仕事がんばってきて」
「昋詩ちゃん………」
「その代わり、いつか叔父さんがゆっくり休めたときでいいから、温泉旅行とか連れていってね」
昋詩は笑顔を向けて、篤に温かく言葉をかけた。
一瞬、篤はそれを聞いて涙腺が緩みそうになって、しかしそれを抑えながら深く頷いた。
その様子にまた笑顔を見せた昋詩は、ふと目に止まった、テーブルの上に広げたままの観光雑誌をしまおうと手を伸ばして、
「叔父さんとカリフォルニア、行きたかったな」
蚊の鳴くような声で、篤には聞こえぬよう、そう呟いた。
それが聞こえてしまった篤は、反射的に立ち上がった。
「昋詩ちゃん」
「……叔父さん?」
不意に立ち上がった篤に驚いて、昋詩は目を丸くする。
篤は、昋詩の手にとった観光雑誌をちらりと見た。
たくさんのページに付箋が貼られている。そもそも、これを買ってきたのも昋詩だった。
篤ほんの少しのあいだ、思索をした。
それから、昋詩を見下ろして、言い切った。
「行こう。カリフォルニア」
力強い言葉だった。
昋詩は小さく口を開けて、
「え、でも……お仕事なんでしょ?」
「うん。仕事だ」
頷き、でもね、と続け、
「連れていってあげるよ。ロサンゼルスも、サンフランシスコも、サンディエゴも、サクラメントも。この連休のあいだに」
「………ほんと? 無理してくれなくて、いいんだよ?」
伺うように、恐る恐る昋詩が尋ねる。
「無理なんてしてないよ」
「ほんとに?」
「うん」
まだ不安げな顔を残す昋詩に、
「昋詩ちゃんの笑顔を見ないと、僕も仕事を頑張れないからね」
篤はそう、朗らかに微笑んでみせた。
昋詩の顔にようやく、笑顔が帰った。