第九章 テメキュラにて 1(DAYTIME 1)
Oct. 17, 05:58 a.m. PST
Above Green’s Vineyard, Temecula, CA
「わあ………!」
薄く霧がかかった朝の冷気を肌に感じながら、昋詩は地平線の向こうに見惚れていた。
辺りはまだ薄暗い。ほんの少し朝霧がかかっていたが、上空から見渡す景色に支障はなかった。濃淡をつけて、藍色に染まった空がいつもより近く感じられる。縁から顔を出して眼下に目を遣れば、まるで現代アートのような幾何学模様を成した緑色の葡萄畑が、遥か足元に並んでいる。
隣で目を輝かせる昋詩の姿に、篤は目を細めた。
二人の頭の上の辺りでは、穏やかな冷風に晒された火が小さな音を立てて揺らめいている。耳がおかしくなったのかと勘繰ってしまうほど、藍色の空の下はしんと静まり返っている。
やがて、アメリカらしい広大な大地の上で、畑と、丘と、緑に囲まれた街並みが、東方から漏れ出る淡い光を浴び始めた。
二人の目が見守るなか、なだらかな山の稜線の向こうから、眩いばかりの朝日がゆっくりと顔を出した。
* * * * *
早朝、というよりも残夜のほうがしっくりくるような時間に、二人はある葡萄畑の一角にいた。フライトガイドやスタッフの持つライトに照らされる二人の足下には、人や車両に踏み荒らされた乾いた土と疎らに生えた雑草だけが広がっている。
二人の目の前には一台の大きな荷車があって、その荷台から、五人くらいなら優に収まってしまうような巨大な籠が運び下ろされていた。籠を担いだ男性はそのまま引き摺り下ろすようにして、これまた巨大な樹脂製の皮が地面いっぱいに広げられた傍に、それを置いた。
その場には二人のほかに、薄暗闇のなか作業をする男性陣と、七人の男女がいた。観光客然とした三組の男女は、昋詩たちと同じようにその光景を興味深そうに見守っていた。
「叔父さん。私たち、これから何するの?」
「もう少し待っててごらん。もうすぐ分かるはずだよ」
篤の焦らすような口振りに首を捻りつつ、昋詩は作業中の男たちへ視線を戻した。
彼らの手際は非常に敏活だった。彼らは数人で分担して、樹脂製の皮──球皮の口やロープの部分をそれぞれ手で持って押さえた。残った男が球皮の頭のほうへ向かい、マジックテープで排気用の穴を塞ぐ。
球皮の口を押さえていた二人の男が入り口をぐっと広げると、エンジン付きの大きな送風機がやってきて口を繋ぎ、音を立てながら風を送り始めた。ゆっくりと、球皮が空気に圧されて膨らんで、昋詩にも見覚えのある形を作っていく。
「……あ!」
昋詩が声を上げたところで、バーナーが点火した。
熱を帯びた空気が、球皮の内側へ送り込まれる。数分もしないうちに、下部に籠を取り付けられた球皮は、縦筋を持った卵が丸く設えられたような独特のシルエットを完成させていた。それは、
「これ、気球だ………」
目を見開いて、昋詩は思わず呟いていた。
フライトガイドを名乗る男が二人に話しかけたのは、それからすぐのことだった。初めに組み立てられた気球はもう準備完了のようで、続いてもう二機の準備が始まっていた。
「どうも初めまして! フライトガイドのアランです。よろしく、よろしく」
肌を焼いたトラックジャケットの男は爽やかな笑顔で自己紹介をし、二人と握手を交わした。
「お二人には、いま向こうで膨らましている機体に乗ってもらいます。あと五分もしないうちに飛べるようになります。フライトが始まってからは勿論、空中にレストルームなんてありませんから、必要なら今のうちにどうぞ」
「ありがとう。大丈夫です」
篤は笑顔でそう返した。昋詩も、事前にきちんと済ませておくよう言われていたので問題はなかった。
フライトガイドは頷いてから腕時計に目を落とし、それから首を振って組み立て中の気球を見遣った。二機同時に準備を進めているせいか、後からやってきたスタッフが作業に加わっても、もう暫くはかかりそうだった。
「今日は霧が少し出ていますが、天気はいいので最高の景色が見られるはずですよ。それでは、先にフライトの説明をしますね。
お二人に乗っていただくのは、あそこで膨らませているオレンジ色に青い星模様の機体です。名前は『サン・キスト号』といって、去年入ったばかりの新人です。フライトではここを出発して、千メートル上空を一時間ほど飛んで、それからまたここに戻ってきます。お二人は日本からお越しですよね? 日本では係留、つまり地上とロープで繋がったままでのフライトが主流ですが、ここテメキュラでは専らフリーフライトなので高度は比べものにならないくらいバツグンですよ。
お二人はプライベートフライト・プランなので、あれに乗るのはパイロットと私のほかは貴方がただけです。乗り込む際、パイロットのほうから諸注意があるので、よく聞いておいてくださいね」
「分かりました」
「わ、わかりました」
篤が返事をしたので、遅れて昋詩もそれに倣う。フライトガイドはにっこり笑って、
「途中、パイロットと私がテメキュラや気球の歴史についてお話をします。是非楽しんでいってください」
そこへ、作業に加わっていたスタッフの一人が駆け寄ってきた。スタッフがフライトガイドの男に用件を伝えると、彼は親指を立てて何かを指示する。帽子を被ったスタッフは片手で鍔の角度を直しながら頷き、踵を返して大きく膨らむ気球の下へ戻っていった。
それからフライトガイドはくるりと二人のほうへ向き直って、爽やかな笑顔のままこう告げた。
「ちょうど機体の準備ができたようです。では行きましょう!」
* * * * *
Oct. 17, 07:22 a.m. PST
Green’s Winery, Temecula, CA
明け方の霧はすっかり晴れて、秋の空は一面の青に染まっていた。
遮る雲一つなく降り注ぐ朝日は、広大な大地──葡萄畑やワイナリーを明るく照らし出していた。ワイナリーの見学用施設から一角突き出たテラスでは、木と蔦でできた庇が影を作って適度に日差しを和らげている。
「それでは、乾杯!」
その畑側、テラスと綺麗に整えられた芝生を仕切るための柵に背を向けて立っていた男が、ワイングラスを掲げて元気よく音頭を取った。手を軽く振ったのに合わせて、グラスの中の液体が身を揺らした。
「乾杯!」
続いて、男の前に幾つも並ぶ木造りの円形テーブルに、分かれて着席していた老若男女が男の台詞を真似て、同じようにグラスを掲げる。
外の芝生と葡萄畑が作り出す広大な緑を、最も間近に堪能できる席で、一組の男女もそれに倣う。
ワイングラスを掲げる篤は、昨日と同じく白のワイシャツと紺のスラックス。ただし、今日はその上から、紺と緑で構成されたアーガイル柄のベストを着ている。早朝の気球フライトに備えての上着だったが、上空で更にその上に羽織っていた灰色のコートは、今は脱いで椅子に掛けてある。
その向かいの席で、一人ワインと見紛う色をした葡萄ジュースの入ったグラスを手にしている昋詩は、彩度の低い赤、緑、そしてアイボリーを基調にして塗り分けられたストライプのセーターを着ていた。腰にはチョコレート色のベルトを巻いて、その下は朱色のガウチョパンツ。篤と同じく、防寒のためフライト中に羽織っていたデニム生地のジャンパーは、椅子の背凭れに掛けられている。
グラスの内壁に太い道を作って流れる深い赤紫色の液体を少しだけ、ゆっくりと口に含んで、篤は舌の上で転がした。
昋詩はその様子を盗み見ながら、同じような動作で同じ色の液体を口に含む。
「ん、おいしい」
味わい、飲み込むと思わず声が出た。昋詩は手中のグラスにまだ残っている液体をまじまじと眺める。舌に残った風味が、普段飲んでいる葡萄ジュースからは感じられない上品さのようなものを追撃の如く与えてくる。
「これ、すごくおいしいよ。そっちはどう?」
昋詩が顔を綻ばせて篤を見ると、テーブルを挟んだ向こう側で、篤はちょっぴり難しい顔をしていた。
「うん、おいしい。……けど、正直言って、普段飲んでる市販のワインとの違いが……あんまり分からない。味は違うし、いつもより渋く感じるんだけど」
でもおいしいよ、と付け足して、篤は暫く弄んだ口の中のワインを嚥下して、二口目に取り掛かった。
それぞれのテーブルの上には、葡萄の酸味を引き立てるための細やかな朝食が並んでいた。ここで提供されるワインやジュース、そして朝食は全て気球フライトのツアーに含まれている。
二人が料理に手を付け、粗方食べ終えたところで、ワイナリーレストランの料理人が篤の方に近づいてきた。
「お料理とワインはいかがでしたか」
腰に黒いサロンエプロンを巻いた料理人は、笑顔で尋ねた。
「とても、おいしかったです。ありがとう」
彼の笑顔を見上げて、篤も同じく笑顔で応じる。
「それはよかった。食器をお下げしますね。──ワインのお代わりはいかがですか?」
「じゃあ、もう一杯だけ」
「畏まりました。お嬢さんは?」
「え、あ。おいしかったです。私も、ください」
「畏まりました。それではソギさん、こちらをどうぞ」
去り際に、料理人は二枚の紙片をテーブルに置いていった。
昋詩は不思議そうに、それを覗き込む。
「これ……なに?」
紙幣によく似たそれには、瑞々しく実った一房の葡萄がインクで描かれていた。背景には、緑の帯が規則的に並んだような葡萄畑が青空の下に広がっている。
昋詩は手にとって、それを繁々と眺めた。表面に印字された文字を読もうとするが、筆記体の判読は彼女の英語能力では多少荷が重かった。
「すみません」
篤はテーブルの脇を通ったウェイターに声をかけた。
「さっきシェフがくれたんだけど、これは何ですか?」
「そちらはワインの割引券です。観光事業の一環で、テメキュラ内のワイナリーにこれを持って行くと、ワインを割引で飲むことができますよ」
二十代後半といった顔付きのウェイターは、空のワイン瓶を丸いトレイに載せたまま快く、かつしっかりと答えた。
「ああ、そういえばプランに書いてあったね。これは、どこのワイナリーでも使えるの?」
「はい。私の知る限り、使えないお店はありませんよ」
「そうか。ありがとう」
ウェイターが会釈をして去るのと同時、別のウェイターがやって来て二人の飲み物を足した。ボトルの口からワインが垂れないよう、ナプキンで下から支えるのが昋詩にとっては新鮮だった。葡萄色の液が滴ち落ちるのを待ってから、篤は昋詩に向き直った。
「割引券だって」
「うん、なんとなく分かった」
昋詩は指の腹で筆記体の列をなぞりながら答えた。それから新しく注がれた葡萄ジュースをひと口飲んで、口元を綻ばせる。その様子を見て、篤も二杯目のワインを口に含む。
「この後は、どうする? お昼からは特に予定を組んでないんだけど」
「あ、そうなんだ。……うーん」
広大な青空を見上げて昋詩は唸る。
「テメキュラって、基本的にワイナリーとワイン農場が有名なんだよね。あとは、幾つか博物館とかモール、公園があるくらいで。昋詩ちゃんの希望を聞いて、ワイナリー巡りか散策か決めようと思ってたんだ」
「それなら……ほかのワイナリーにも行ってみたい、かな」
テラスの先に広がる葡萄畑を眺めて、昋詩は呟いた。秋の心地よい風が緩やかに、葡萄の木の列を西から順に撫でていくのが見える。葡萄の葉がさわさわと奏でる音が耳を気持ちよくさせた。
昋詩はぐい、とグラスの中のジュースを飲み干して、
「葡萄ジュースおいしかったし、券使わないと勿体ないもんね」
「じゃあ、それで決まり」
お久しぶりです。桜雫あもるです。
体調を崩していますが、大丈夫、ライフはまだ残ってる。ということで投稿いたします。
読んでくださっている方を甚だ待たせたままのため、近況報告等もしたいところではありますが、とりあえずは今回の話の補遺だけ。
実際のツアーでは、朝食とシャンパンの乾杯のあとで、気球の歴史についてお話があるそうです。(プランにもよると思いますが)
今回は展開の都合上、フライト中に、ということにしました。
フライト証明書、なるものを頂けるのも魅力の一つですね。
というわけで、また次回!
いつになるかは分かりませんが、スパイについての本をブ○クオフで購入したため、次々回以降の「夜の部」の内容にも深みが出せたらなあ……というところです。
それでは。




