とある少年の追憶
ウゥゥゥ――――――ンと、化け物の唸り声に似たサイレンが、辺り一帯に鳴り響いていた。
太陽はいつも通り天高く昇り、朝日を送っている。けれど、太陽の下で暮らす人々は、いつも通りとは言えない、異常事態に巻き込まれていた。
少年は少女の手を握りしめて、一心不乱に住宅街を駆け抜ける。サイレンに混じって破砕音がし、黒煙と火柱と消炎の匂いが周囲から立ち込めていた。時折聞こえてくる人々の絶叫が天を裂き、少年の心を焦燥と混乱に染め上げる。
「大丈夫だからな、桜! 心配しなくても、お兄ちゃんがずっと側についてあげるからな!」
少年から離れないよう隣で懸命に走る少女――妹に向かって言う。桜は今年で、十歳になったばかり。少年は妹より二つ年上だった。
彼女は言葉ではなく、少年の手を強く握り返す事で答えた。
二人は走る事、五分弱。大通りに出ると、そこは悲惨な有様となっていた。
玉突き事故を起こす車から黒煙と炎が上がり、中から血だらけの人間が這い出してくる。民家に突っ込んでいる車もあった。電柱に衝突している車もある。既に事切れた人もおり、地ベタに転がる無数の亡骸は、血を吐き散らし異臭を漂わせていた。
「あ……、あ!」
まだ息があったのだろう、地面を這っていた全身血まみれの男が、少年の足首を掴んだ。
「ひっ……!」
突然の事に小さく悲鳴を上げた少年は、男を蹴り飛ばして、少女を連れて逃げる。
どこへ向かえばいいのか。どこへ行けば助かるのか。どこまで進めば、この異常な風景を見ずに済むのか。何も分からない。頭の中はぐちゃぐちゃで、ただ足を動かす事のみに専念していた。
大通りから脇道に逸れ、抜け出た先でまた大通りに出る。そこで、人々の姿を視界に捉えた。
「人だ……! 俺達以外に生きている人がいる! 助けを呼ぼう!」
一歩踏み出した。けども、その次を踏み出す事は永遠に無かった。
彼らの背後には、トラックと見紛うほどの規格外な生き物が迫っていた。
黒紫色の虎に似たそれは、車や電柱や信号といった障害物を物ともせずに、破壊の限りを尽くして人々に襲い掛かる。無力な人間は、逃げるしかない。立ち向かえばどうなるか……想像に難しくない。踏み潰されて、原型を失った車と同じ運命を辿る事になるだろう。
「あれが、《病魔》……」
少年は立ち止まる。生まれて初めて見る存在に恐れをなし、足を震わせる。
手に込める力は強くなり、横から声が上がらなければ、桜の事さえ忘却していただろう。
「お兄ちゃん、手が痛いよ……」
「あっ、ごめん! 大丈夫かッ!?」
「うん……平気。でも、少し疲れちゃった」
桜の額から汗が伝う。半時間もの間休まずに走り続けていたのだ。そろそろ休憩を入れなければ、彼女の体力は限界を迎えて動けなくなってしまうだろう。
「少し休むか?」
「うん……ごめんね、お兄ちゃん。私のために……」
「いいんだ。俺の事よりも自分の事を心配しろ」
どこかに休憩所はないかと、周囲を見渡す。丁度、近場にあった大きな公園に立ち寄り、麗らかな日が差し込むベンチに桜を座らせる。
幸いにも、公園には病魔の姿はないようだった。当然ながら、人もいなかった。
「喉渇いてないか?」
「うん……少しだけ」
「買ってくるから、少しだけ待っててくれ。何か遭ったら、直ぐに携帯で連絡してくれ」
「うん、分かったお兄ちゃん」
桜が頷いたのを確認してから、少年はまた走り出した。確か、公園を通っている途中に、自販機があったはずだ。少年はそれを思い出し、来た道を引き返す。
少年は走っている最中で、桜の事を思う。こんな時でも、彼女は泣き言を吐かなかった。弱音を言わなかった。安心する反面、少年の心を覆ったのは不安と恐怖だった。
無力な少年ではアレと対決したところで、勝つ見込みはない。――つまり、死を意味する。
「……俺が死ぬならまだいい。だが、桜は、桜だけは絶対に守らなければ……!」
だが、どうやって? と冷静な自分が問い掛けてくる。ヤツと相対しただけで、足の震えが止まらないのだ。それなのに、助けられるのか? 救えるのか……?
「いや……出来る出来の問題じゃない、やるしかないんだ……! そうしなければ、桜が死んでしまうんだ!」
爪が手に食い込むぐらい、力強く拳を握る。
程なくして自販機を見付ける。だが肝心な事に気づく。いくら全身をまさぐっても、お金が無かったのだ。
「くそがッ……!」
あまりの不条理さに苛立ち、少年は思いっきり自販機を蹴り飛ばした。ガタンッと音がして、取り出し口に缶が落ちてくる。罪悪感はなかった。生き残るためだと自身に言い聞かせて、飲み物の種類を確認する事もなく取り出し、走り出す。
「ギリャアアアアアアアア―――!!」
その時だった。甲高い雄叫びが頭上から上がる。何事かと天を仰げばそこには。太陽とは明らかに違う、禍々しい色をした鷹の形の《病魔》がいた。大きな嘴を広げて、背中から生えた黒紫色の翼で空を旋回していたのだ。
「ああっ……なんて馬鹿だったんだ、俺は! どうして地上にしか病魔がいないと思っていたんだ……!」
絶望が心を一瞬にして覆う。少年はもつれそうになる足を懸命に動かし、桜の元へと向かう。
「桜―――ッ!!」
少年の声に気づいたのか、ベンチに座っていた桜が面を上げる。少年は、桜に向かって手を伸ばす。彼女も少年を求めて走り出し、手を伸ばす。
二人の距離は、歩数にして五歩。だが、その五歩の間に黒い影が横切る。
何が起きたのか、一瞬分からなかった。――いや、脳が理解を拒んだ。
桜だったモノが地面に臥していた。引き千切られた首から噴出する、赤黒い液体。それが、地面を染め上げ、一部が少年の顔に降り注いだ。生温かくて、鉄の臭いがした。数分前にも同じ光景を見た。これは血だ。人間の血だ。桜の血だ。
理解した瞬間、少年は喉が張り裂けそうになるぐらい叫んだ。腔内が血の味で満たされる。叫んだ拍子に、口の中を切ったのだろう。
「おい、桜返事してくれ! お願いだ、桜! 桜、桜桜桜桜!」
身体抱きしめ、名前を呼ぶが、身体はぴくりとも反応しなかった。
「いくら呼びかけても死人に口はないよ、少年」
突如頭上から声が掛かり、少年は虚ろな目をして面を上げる。
コツコツと踵の高い靴を鳴らして目の前に来たのは、女性だった。歳は、二十代後半ぐらいだろうか。黒いストッキングを穿き、黒いジャケットを羽織ったスーツ姿の格好をしている。黒髪を後頭部で結い、ポニーテールにしていた。
彼女の背後では、同じような服装をした男女が三人、それぞれ真剣な面持ちで付き添っていた。
「すまない少年……。私達が遅れたばかりに、一人の犠牲を生んでしまった。少年、お前だけでも、避難するべきだ。ここは私ら、《新人類防衛軍》が引き受ける」
女性は、吸っていた煙草を地面に落として、靴の先で踏みつけると、眼鏡の奥から少年を睥睨する。切れ長の瞳は威圧的であり、言う事を聞かないのならお前も始末する、とでも言いたげだった。
「嫌だ! 俺は……俺は! 桜を……!」
でも少年は、冷たくなった桜の身体を抱きしめて、首が取れるぐらい激しく振った。
「彼女を? どうする気なんだ……?」
「桜を助けるんだ!」
対抗するように、女性を睨み付ける。しかし、彼女は頭を抱えて、少年に冷めた目を向ける。
「助ける? 馬鹿を言うな、少年。彼女はもう死んだんだ。いくら超能力者でも異能力者でも、たとえ神様でも死んだ者は助けられない。それが、世界の理だ。現実を見るんだ、少年」
「死んでないっ! 死んでなんていないんだ……! だって、俺が助けるって決めたんだからっ……! 救うんだから! 守るんだから! だからっ、だからっ……!」
妹の死を認められなくて、認めたくなくて、必死に掠れた声で叫ぶ。いつの間にか、涙が零れていた。拭っても拭っても、瞳から止めどもなく溢れ出る。
「五月蠅いッ! 黙れッ! ごちゃごちゃと泣くな! お前がいくら言おうと、彼女は死んだんだ! 事実として受け止めろ! それとも、お前も死にたいのか!」
少年の態度が癪に触ったのか、女性は怒鳴り散らした。
「そっちの方が、よっぽど良かったよ! 桜のいない世界で、生きていたって何もいいことなんてない! 死んだ方がましだった!」
涙声で言う少年の頬に痛みが走り、次第に熱が帯び始める。頬に手を当てる。女性にぶたれたのだとようやく気づいた。
「いいか、少年! お前と同じぐらい悲惨な目に遭っている人間は、巨万といるんだ! この瞬間にも! でも彼らは生きようと懸命になっているんだ! 分かるか! お前は、彼らを前にして死ぬと同じように宣言出来るのか! お前は、天で見ている桜に格好悪い姿を曝すのか! 生きろ! 生きて生きて生きて生き抜いて見せろ! 桜の分まで生きるんだ! それが、今生きている人間の精一杯出来る事だ! 桜に出来る、精一杯の償いだ!」
女性は少年の胸倉を掴み、有りっ丈の思いをぶつける。少年はついに崩れ落ちた。
「ギリャアアアアアアアア―――!!」
空を飛んでいた鷹型の病魔が、甲高く叫ぶ。その叫びは、少年の血を欲しているように聞こえた。
「お前ら、彼を保護していけ。私は、アレを相手にする」
「はい、分かりました、獅子家指導者!」
女性の命令を受けて、彼女に付き添っていた三人の《新人類防衛軍》が、少年を掴み上げる。だが、少年は最後の足掻きとばかりに暴れて、決して妹だったモノを離さなかった。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌嫌嫌嫌―――!! 桜と離れたくない!」
「獅子家指導者、どうすれば……!」
妹を抱いて喚く少年にどう対応したらいいのか困った防衛軍の一人が、女性に尋ねる。
「子共の我が儘に付き合っていると任務に支障が出るな。しようがない、眠らせろ。能力を、一般人に使う事を許可する」
「はい、分かりました、獅子家指導者!」
三人いた防衛軍の一人が、少年の顔に近づきそっと囁く。
「安からかに眠れ」
その声が脳に浸透した時、身体から力がふっと抜け、少年は《新人類防衛軍》の肩に寄りかかった。
「な……に……を……し……た……」
急激な睡魔に襲われ、女性に疑いの目を向ける。しかし、彼女の返答を聞く前に、少年は眠りに落ちてしまった。
「すまないな、少年。辛い思いをさせてしまった」
だから、謝罪の声が届く事は、永遠になかったのだった。