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森に囲まれた王国は、深閑とした夜の中にあった。
明かりの少ない王の居室に、しずしずと二妃が入る。入れ替わりに、近侍達が退室した。
窓辺の瀟洒な長椅子に、王はもたれていた。招くように腕を上げる。
陛下、と不安げな声音を洩らし、二妃は夫の隣に浅く腰を下ろした。王はやつれの消えていない顔つきで、妃の手を取る。
「末呉羅は」
低く穏やかな声が問うと、大丈夫です、と己にも言い聞かせるように二妃は応じた。応じたものの、顔を曇らせる。
「丹亜様がお出かけと知って長いこと泣いたものですから、また少々熱が出ました」
そうか、と王は倍以上年若い妻の繊手に目を落とす。二妃はもう一方の手を重ねた。「丹亜様は御無事で?」
「……十人連れている。亭柄師が南東の関より見送ったらしいが……旅費が僅か故、月区以外を目指すやもと、直前になって丹亜はどうも惑ったようだ……」
そこまで言って、王は咳をする。二妃は夫の上着の前を合わせ直した。するに任せて、王は言を継ぐ。「下手に道をたがえぬ前にと、知古嵯が迎えの隊を出したと言っていた。ほどなく戻ろう」
王弟の名に、二妃は双眸を揺らした。
「末呉羅は、丹亜様と一緒に教えていただくのだと楽しみにしておりました。亭柄様は御高齢でもあります。此度のこと、お許しいただくわけには参りませぬか……?」
王は訝しげに眉を寄せた。
「許すもなにもない。亭柄師は確かに丹亜を送り出してしまったかもしれぬが、それを言い出せばきりがない。そもそも最初に王女付き以外の随行も付けず、城外での薬草摘みを許可したのは知古嵯だ。わたしも執務にかまけて事後承諾してしまったし、丹亜自身の置手紙もあった」
聞くうち、二妃は顔色が一段と悪くなった。
「亭柄様は此度の責を負い、北の塔にて蟄居の沙汰がくだったと、聞き及んでおりました」
「誰から」
声は穏やかなままだったが、王の眼光は鋭くなっていた。二妃が微かに震える声を出す。
「宰相閣下の、御令室から……」
十九歳の王弟妃は赤子を乳母に任せ、宰相の妻として精力的に茶会を開いている。国内の高位女性を束ねる役を、自らに任じているらしかった。
軽く二妃の手を押さえると、王は椅子から立ち上がった。廊下への扉に向かいながら、側近の名を呼ぶ。
薄く扉を開け、王はティエの所在を問うた。意を受けた側近が廊下を足早に去る。
扉を閉じ、完治に至っていない王は二妃の元へ戻った。長めの上着の裾が、ゆらりと彷徨う。
「しばらく、末呉羅の具合を理由に宰相達との関わりを断て」
青ざめた二妃は、王の腕の中で黙って頷いた。
丹亜は、ハッと瞼を上げた。
薄暗く低い布天井に向かい、幾本もの細い梁が大きく円を描いている。見慣れない光景の筈だったが、とても記憶に残っている天井だった。
梁と柱が交差している所からは、太めの紐が垂れている。
わけも解らず、とにかくソレにしがみついたのを思い出した。自分だけでなく、他の者達も。
『リ・コウ――っ』
皆で、運命を司る風の男神の名を叫んだ。叫びながら、この天井を見上げたのだ。
街道を大きく外れ、草の薄まった場所に白く円い小屋を見つけた頃には、いつ雨が降り出してもおかしくない空模様になっていた。
更に風が、やけに強く吹き渡っていた。
連れの男二人が歩調を緩めて近づくと、小屋の脇から犬が二匹走り出てきて吠えたてた。
吠え声で、そこだけが木造りの戸が開き、小柄な中年女性が出てきた。連れの年上の方が、嵐が過ぎるまで泊めてくれないかと丁寧に頼むと、女性はあっさり諒承してくれた。
ホッとしたのも束の間で、小屋に入るや風が尋常じゃなくなった。小屋は組み柵のような物と頼りなげな二本の柱だけで支えられていたが、それらがミシミシと音を立て始めたのだ。
掴まって! と女性が大声をあげ、小屋に居た幼子二人が天井から下がった紐に飛びついた。連れの二人も迷わず空いた紐に取りつき、立ち尽くしている丹亜と成に怒鳴った。早くしろッ、と。
ビョホ――ッと、雷に負けない轟音と共に、暴風が吹き抜けていくのが判った。
全員で風神に祈り続けるうち、雨音が聞こえ始め、風は治まっていった。
布の家なのに、雨漏りは無かった。床下に少し水が染みているようだったけれど、初めから絨毯の下に簀の子のような物が敷いてあるらしく、問題は無かった。
お蔭で飛ばされずに済んだ、と女性が嬉しそうに言い、しばらくして慌てたように帰ってきた家主の男性とその息子からも大いに感謝された。
そうして、歓迎の宴のようなモノが始まった。
中央の炉を囲んで並んだ料理は、見たことの無い物ばかりだった。何なのかさえ判らない薄黄色く柔らかめの塊。炙った平たい何かの肉。白い饅頭。白くべちゃべちゃした粥のような半液体。
毒味の必要も無い湯気の上る品々だったが、小屋には生臭さがたち込めていた。空腹だのに、丹亜はなかなか食べ進められなかった。
なんとか完食できそうな饅頭を我慢して口に運んでいると、幼い娘子から、椀に注がれた乳白色の汁物を渡された。にこにことして、はい、と出され、丹亜は引きつらないように留意しながら受け取った。
意外にも、鼻先を爽やかな柑橘系の香がよぎった。それまで鼻腔を脅かしていた臭いが臭いだったので、丹亜は思わず、ぐいっと飲んでしまった。
生ぬるい液体が喉を過ぎゆき、胃に達したと思う間に、得体の知れない熱が駆け昇ってきた――
瞬きと共に事々が蘇り、丹亜は飛び起きた。ズキンと頭が痛む。
丹亜の代わりに、間近で小さな呻き声がした。頭をさすりながら見れば、どうも成が隣に横たわっていたらしい。同い年の侍女は寝返りを打ち、大人しくなる。
丹亜はゆっくりと、視線を巡らした。
まだ夜の只中か。屋内が薄暗いのは、炉の残り火の所為らしい。
小屋は炉を境にして二分されていた。食事の時には無かった仕切が置かれている。今いるのは、入口から向かって右側の奥だ。仕切の向こうから聞こえるのは、いびきというヤツだろうか。
それなりの部屋に一人で寝たことしかなかったから、奇妙な気分だった。各自のたてる深い呼吸音が落ち着かない。
掛けられていた布を剥ぐと、丹亜はそろりと立ち上がった。身体のあちこちが、軋んだ。
温かい炉の前にしゃがみ込んで手をかざす。
少々冷えていた掌から、温もりが身体中に広がっていく。息を一つついた時、ひそめて掠れた声がした。
「具合は平気か?」
びくりと目をやれば、白髪混じりの黒い頭が、のそりと這って来ていた。宴の段になって互いに名乗り合い、彼はネンジ・スーと言っていた。若い方はヒコ・スー。同じ姓だが、血の繋がりは無いらしい。
ネンジは炉を挟んで向かいに胡坐をかくと、丹亜と同じように手をかざした。
頭がズキズキする、と丹亜が告げると、ネンジは声を出さずに笑った。奥歯が一本、無いようだ。
「嬢ちゃんは酒に強くなさそうだ」
「あれは、酒だったのか」
「草原の連中にとっちゃ、水の代わりだけどな」
「……わたくしは、倒れたのか」
「そそ。後ろにばったーんと」
羞恥が湧き起こると、頭痛が酷くなった。こめかみで脈打つのが判る。丹亜は声量を更に落として、ぼそぼそと言った。
「又、迷惑をかけてしまったのだな……すまない」
「俺ぁ、別に? 成が大袈裟に騒いでたけどな」
問いかけの目を投げると、ネンジは瞳を少し上向けた。青みがかった黒眼が、思い返すように細まる。「ワクさんが寝床に運んでやろうとしたら、自分がやると言い出して――正体失った人間ってのは重いんだよな。よろよろして、色々引っくり返して、結局ワクさんが手を貸したんだけども、悔しかったのかべそべそ泣き出して」
たった一人になってしまった侍女としては、主の世話を他者にさせたくなかったのだろう。急に倒れてしまって心配もしたに違いない。
そうか、と呟くように言って、丹亜は炉で赤く燻ぶる燃料を見つめる。
炉の向こうでは、ネンジがじろじろとこちらを眺めていた。不躾な視線に、丹亜は炉の火から目を上げる。
父よりも年上に見えるが、男に貫録は無かった。面白がっているような目つきをして、口の片端で笑む。
「嬢ちゃん、何処へ行く気なんだ」
逡巡の後、丹亜は正直に答えた。
「月区へ。だがその前に、この地区の皇領府――南北どちらかへ行かねばならぬ」
ネンジは薄い唇を歪めた。
「ここからなら南だろう。橋を弁償しに行くとか言うんじゃねぇだろうな」
「それは貴公の連れがしたこと。わたくしがあがなう義理は無い」
卑怯を承知で丹亜は断言した。あの破壊の弁済を負わされては、旅を続けられなくなる。助けてくれたこととは別問題にしたい。
皇領府には、見捨てることになってしまった他の近侍達の、安否を確かめに行きたかった。信用のおける配達人を雇い、こちらの無事も国に知らせておきたい。併せて、旅を続けるつもりだとの意思表示も。
肩をすくめるようにして、ネンジは胡坐をかいた両膝に手を置いた。
「何にせよ、安易な皇領府入りはお勧めしねぇな。嬢ちゃんを追ってた連中も向かいそうだし」
あり得そうだった。丹亜は言葉に詰まって下唇を噛む。
膝頭をぽりぽりと掻いてから、ネンジは懐から何か摘まみ出した。
「まぁ、弁償については、いざとなったらコレで勘弁してほしいわな。足しにはなるよなぁ?」
丹亜は目を見張り、己が服の帯の合間に手を突っ込んだ。無い。
一気に頭から血の気が引いて、懐を探る。こちらは、あった。
懐に手を入れたまま脱力した丹亜の向かいで、ネンジは指先で摘まんだ指輪をゆらゆらさせた。
「色々と金目の物を持ってたようだな。嬢ちゃんが馬車から転がり出た時に、散らばったのが判ったぜ。俺ぁ、コレ一個だけ拾えたんだが」
ふた月は遊んで暮らせそうだ。ネンジはそう続けてニヤニヤする。
丹亜は唇を噛み締めた。目利きの少ない地で換金するのは損だと思い、一部しか売却しなかったことが裏目に出てしまった。硬貨の入った財布と、ティエから預かった封書や寸志は懐に残っている。が、それ以外の装飾品は……
ネンジの手にあるのは、丹亜が十歳の祝いに貰った物だ。金細工で真紅の宝石が嵌まっているから、そこそこの値にはなると思っていた。装飾品に興味が無くて、正確な価値は全く判っていなかったが。
返してくれと頼んでも、目の前の男相手では無駄に思える。
溜め息まじりに、丹亜は言った。
「貴公らに助けられたのは事実だ。せいぜい高く買い取ってもらうがいい」
骨張った小指の先に輪をねじ込んで、ネンジは目を眇めた。
「下手したら死んでたコトの対価にしては、安くないか?」
頭痛が酷くなって己の苛立ちを自覚する。丹亜は努めて表情を消した。
「わたくしが財産を落としたところを見たのだろう? 残っているのは師から預かっている手紙と薬代だけだ。貴公ら、結果的に死にはしなかったのだから、ソレで妥協してもらうしかない」
あからさまに、ネンジは当てが外れたような顔になった。
「おいおい、そんなでよくまぁ月区くんだりまで行くなんて言えるな。この先の旅費はどうするつもりだ」
ぐ、と丹亜はくぐもった声を洩らしてしまった。
残った硬貨だけでは、恐らく、成と二人分で済むとしても足りない。往復で、まだ殆ど半年かかる旅程だ。
丹亜の反応に、本物の路頭迷いか、とネンジは唸った。
「ったく、ヒコの奴、厄介に首突っ込みやがって……」
ぶつぶつと言って、ネンジは白髪混じりの頭を掻いた。「これで見捨てたら、命の恩人である筈の俺達が、人でなしみたいになっちまうよなぁ」
いちいち恩をチラつかせる台詞に頭痛が増す。しかしながら、もう放っておいていい、と言ってしまうのは拙いと悟っていた。
丹亜は皇領を、ティエの講義上でしか知らない。草原の中で、このような布小屋に住む人々が居るなど、初めて知ったくらいだ。
取り敢えず見捨てはしないようなので、丹亜は姿勢を正すと黙ってネンジに頭を下げる。一国の王女として、譲歩できる限界だった。