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三日ほどは、天候にも恵まれ、平穏に旅程をこなしていった。
馬車は二台共、余計な装飾を除き、質素にしてある。
街道さえ外れなければ盗賊の類に出くわす率はかなり低いらしいが、他の面々にも目をつけられないに越したことはない。
皇領の街道は、素晴らしく整えられていた。
一直線に切り石が敷かれ、水はけ用の溝もある。歩道と馬車道はきちんと分けられていて、馬車同士も余裕ですれ違えた。
両脇には最初、賑々しく墓所や墓碑が並んでいた。
リィリ王国では糸杉に囲まれた静かな一画に墓地が在る。死者の眠りを妨げない配慮からだが、皇領の死者は生きた証を示すことだけに重点を置いているらしい。だから、目立つ街道が人気なのだそうだ。
春先の所為もあってか色とりどりの花が手向けられており、墓碑の脇に腰かけて休んでいる徒歩の旅人も大勢居た。
風変わりな光景は長々と続いたが、次第に減っていった。
やがて、街道以外は草原だけという風景が増えた。
国境から見た時よりも平坦に、大地には延々若葉の絨毯が敷かれている。天空は薄い雲の他、触れることの叶わぬもどかしい碧が広がるばかり。
ただ、見晴るかせば、鳥や放牧されているらしき家畜の姿を目にすることができた。
また時折、街道沿いには馬の交換所や旅人の為の店が姿を見せた。馬車で丁度一日行程の辺りには、華やかな墓所が再登場し始める。宿や露店も大きめになって軒を並べていた。
そんな地点は小さな街のようになっていて、必ず見張り台が在る。早馬での知らせが行き交っているらしい場面を目撃した時は、ひやりとした。
一応父には置手紙をして出て来たし、最終的にティエが事情の説明を請け負ってくれたが、すんなり許されるとは限らない。
王族が僅かな供だけ連れ、公式を装った非公式でうろつくなど、国の威信という点で拙いことこの上ない。連れ戻される可能性は大いにあった。
懸念も抱えつつ迎えた四日目。
だいぶん日が昇っている時刻になっても、天に灰色が満ちていた。お蔭で昨晩からの冷えが緩和されずに続いている。
格子窓に掛けていた布を少しずらし、外を見る。たまたま追い抜いた徒歩の旅人達が、ほわりと白い息をこぼしていた。
空を見上げ、丹亜は眉をひそめた。雲の流れが怪しい。下方と上方とで動きに差がある。
これは確か、嵐になるのではないか。
簡易で構わないから早めに宿泊先を定めるか、馬に無理をさせるか。
かえ馬を気軽にできる程の金銭的余裕が丹亜には無い。王家の馬だから名馬だろうが、この先の使役にも耐えられるのか判断がつかなかった。
馬については侍士の方が詳しいから、丹亜は御者台に近い侍女達へ問わせた。急げるか、と。
「急ぎます。雨が降る前に、この先の川だけでも越えた方が良さそうですし」
侍士の返答の後、軽くパシと音がして、馬車の速度が上がる。
これまでに一度川を越えたが、皇領は橋も見事だった。石造りで、街道の幅もそのまま保たれていた。多少の増水ならびくともしそうになかったが、リィリの脆い橋に慣れている身には、やはり雲行きの怪しい日はさっさと川を越えておきたい。
幾らも行かないうちに、窓に掛かった布が薄白く光った。少しして、馬車の走る音を大きくしたような物音が響き渡る。
水神よりも早く雷神のお出ましか。
丹亜がまた窓掛をずらそうとすると、隣に座っていた成が怯えたように言った。
「開けないでください、入って来たらどうするんです」
「音がまだ遠いし、大丈夫よ」
草原で雷光がどのように落ちて行くのか、丹亜は興味があった。「成もティエ師の話を聞いていたでしょう。光よりも音は少し遅い。故に雷が近づくと判る」
成は十歳で王女付きとして城に来たので、殆ど丹亜と共にティエの講義を聞き続けていた。
「亭柄様のお話は退屈なモノが多かったです」
先日の領結界の話は熱心に聞いているようだったのに、そんな返事を成は寄越してきた。丹亜は肩をすくめて見せ、ほんの少しだけ布を動かそうとした。
パッと閃く光と一緒に、悲鳴が飛び込んできた。続いて硬い物がぶつかり合う音が起こる。
雷鳴と馬のいななきにまじり、逃げろっ、と侍士の一人の声が叫んだ。
馬を励ます御者のかけ声が起こり、丹亜はぐんと引っ張られたように背後の座布団に倒れ込んだ。前に座っていた侍女二人が前のめりになりかけ、声をあげて天井からの紐にしがみつく。
鼓膜を震わせるのが、蹄と車輪が必死に街道を噛む音なのか、空から降る音なのか判別がつかなくなっていた。ヒョオォオ、と不気味な奇声も割り入ってくる。
成が憤慨したような声をあげた。
「街道なら盗賊の類は出ないんじゃなかったのっ」
ティエ師の話、先日から真面目に聞くようになったのか。
場違いな感想をよぎらせながら、丹亜は身を捩って裏窓から外を見る。
白っぽい背景の中で、侍女が分乗していた後続の馬車や従っていた騎馬は、早くも黒い塊のようにしか見えなかった。他の騎馬に囲まれているようだが、はっきりしない。方々に散った影が動き回っている。
何せ、街道に居たのは丹亜達だけではなかった。他にも馬車は走っていたし、徒歩で荷車を引いたり押したりして通っている人々も居た。嵐を察し、皆、それぞれの行く先に急いでいたのだ。
はっきり見て取れる距離の者達も、ある者は後ろを振り返りながら丹亜達と同じ方角へ逃げようとしているし、ある者は僅かな茂みでも求めているのか、わき目もふらずに街道を外れて行く。
それらを蹴散らすように駆けてくる数騎があった。
違和感が浮かんだ瞬間、雷光が思考をも白く染めあげる。同時に、すれ違った馬車があった。その御者は進行方向で起こっている事態に気づいたらしいが、容易く向きを変えられない。繋がれた左右の馬が首をてんでに振るのが見えた。
丹亜も同乗の侍女達も、離れ行く馬車を見送るしかない。
だが、すぐに皆、息を呑んだ。
向かい来る騎馬は三騎。一騎も止まらず、立ち往生している馬車を素通りした。
侍女の一人が御者台を振り返った。
「追い着かれる!」
何ッ、と切迫した侍士の声を背に聞き、丹亜は気づいた。
「先程から、他の者に目もくれていない」
「――では、もしやリィリの――」
成が丹亜に殆ど頬を寄せて裏窓の格子にしがみつく。
「なれば、置き去りの者達はある意味、無事だが……」
丹亜は言葉を切って、じわじわと距離を詰めつつある三騎を見据えた。リィリの警邏隊に、あのような部隊があっただろうか。正規隊は茶色い革の甲冑を身に着けるが、丹亜達と同じく非公式に皇領入りしたからなのか、三騎とも黒尽くめだ。
いずれにせよ、馬車と単騎ではどちらが速いかなど考えるまでもない。
僅か四日で旅を妨げられるのは不本意だった。
「追い着かれたら抵抗はするな。命を大事にせよ」
丹亜は腰を浮かすと蓋になっている座面を開け、未換金だった装飾品の包みを帯の間にねじ込んだ。
殿下!? と狼狽する侍女の声に被せ、言を継ぐ。
「ここまでついて来てくれたことに感謝する」
なりません――何を――と侍女達は口々に言い、揺れる車内で腕を押さえてくる。それを払って、丹亜は横手の格子窓から外を窺った。
馬車が丁度、やり過ごすように立ち止まった二人連れの旅人を追い越す。追っ手と似て、二人共、頭部から首元まで布を巻いていた。目元の辺りだけ露わになっている。
偶然、背の低い方と目が合った。
ほんの刹那だったのに、瞳の色が判った。草原を映したような翠。
誘われるように、丹亜は馬車の扉を開けていた。
侍女が、停めて! と御者台に向けて悲鳴のように発する。馬が鳴き、がくんっと前後に揺さぶられ、丹亜はそのまま転がり出た。
視界が一転二転したけれど、運良く柔らかな草地にでんぐり返る。名を呼ぶ声に顔を上げれば、成が走り出して来るのと、迫る騎馬が見えた。
夢中で立ち上がり、丹亜は追っ手に背を向け駆け出した。
大きな川が、目と鼻の先だった。立派な石橋が架かっていたが、その下方を目指す。
と、ピィッと高く口笛のような音がした。転びそうになりながらも目をやると、さっきの二人連れが並走するように橋へ向かっていた。
顎まで布を下げた背の高い方が、口元から手を放して怒鳴った。
「死ぬくらいなら橋ぃ渡れっ」
死ぬ気など無かったが、一か八か川に飛び込もうとしていたのを見抜かれていたようだった。川辺に駆け下りかけていた足をがむしゃらに動かして二人連れを追う。
王族として護身術を学んでいたこともあり、瞬発力は多少あった。けれど、持久力はあまり無い。
二人は、馬車で追い越した筈だのに、いつの間にか並んでいた上、今や先に立っている。城の中ぐらいしか歩いていなかった丹亜とは、身体の強さがまるで違うのだろう。
丹亜様ぁ――ッ、と金切り声が起こった。振り向けば、一人懸命について来ていた成が騎馬に追い着かれそうになっている。
一騎は停まった馬車の所に居て、二騎が執拗にこちらへ向かっていた。
わたくしに構うな――危ない――っ。
そう叫びたかったが、上半身全てで息をしているような状態で、声にならない。成、と喘ぐように口を動かした時、丹亜の横を痩身がすり抜けた。先を行っていた筈の、緑眼の方。
風を切る音がし、何かがその背を越えて飛んだ。成に並びかけていた馬が、前脚を跳ね上げる。
「止まんな、走れっ」
低声に叱咤され、丹亜はもつれそうな足を動かす。先に行けっ、と言いざま、男が横手で何かを投げるのが視界に映った。背後で馬と人の声が入り乱れる。
つんのめりそうになりつつも、石畳の街道に戻り、長い橋を渡る。渡り切る頃には己の鼓動と呼吸の音がうるさくて、他の物音が聞こえなくなっていた。
倒れ込みそうな半身を必死に起こして振り返る。自分だけが到達したと思ったのに、男が大差無く走り込んできて、同じように橋の向こうに目を投げた。
成が、両手を泳がせながら橋に差しかかっていた。助けに行ってくれたらしい痩身の者が、後ろを気にしながら続く。その姿の遙か遠く、逃げ去る一頭の馬があった。手前の草地に落馬したらしき人影。馬車の所に居た一騎が、ソレに駆け寄ろうとしていた。
残る一騎が馬体を立て直し、馬首をこちらに向けかけている。
後ろ、と言いたいのに舌が回らない。喉がからからで、丹亜は噎せただけだった。代わりに横に立った男が、来る! と大声を放つ。
欄干に縋って立ち止まりかけた成の背をひと押しし、痩身は橋の手前に引き返した。つと、街道に跪く。
何をしていると問う間も無く、騎馬が突進してくる。
あっと思った途端、石塊が飛び散り、籠もった物音と共に横一線、丈高く緑の物体が現れた。馬が棹立ちになり、脚が宙をかく。騎手は辛うじて落馬を免れたが、首にしがみつくしかできずに馬上で跳ねた。
何だアレは――!?
未だ苦しい呼吸さえ忘れそうだった。
現れたのは、木の茂みに見える。
しなやかに痩せた身が翻り、橋の半ばまで来ていた成の腕を引っ張ってこちらに走ってきた。
頭部を覆った布越しに、初めて声が聞こえた。若そうな男の声。
「もう少し行ってて」
背の高い方が、しょうがねぇな、と不意に面倒臭そうな口調で言った。
「しょっ引かれたら、ちゃんとお前がやったって言えよ?」
解ってる、と澄み切った翠の瞳が相方に頷く。
何をする気だ――というより、さっきのアレは何だ。
橋の向こうには、街道の真ん中に垣根よろしく茂みが生えたままだ。馬はへばりつく者を乗せ、川沿いに走り去っていく。
騒ぎの所為か橋の周囲には他の旅人の姿が無かった。しかし、後々あの障害物は邪魔だろう。
思うものの、言葉が出てこない。まだ、追っ手を完全に振り切ったわけでもなかった。
丹亜が小さく口を開閉していると、ほら行くぞ、と低声が促してきた。よろめきながら、割と年嵩らしき男の後ろ頭を見上げる。やや量の少なめな短い黒髪に、白髪がだいぶ混じっていた。若そうな方の父親だろうか。
肩で息をしている成もついて来て、三人で少し進む。すると後ろで、先程のような籠もった音が再び聞こえた。雷鳴ではない。ぼこぼこと、下から何か硬い物を押し上げるような音。
目を向け、丹亜はぽかんとした。
つい今し方まで居た橋の脇に、大木が生えていた。根元に、細い姿が片膝をついている。
太い根が、蛇のように橋の際をうねるのが見えた。根に下から持ち上げられ、石材に亀裂が走る。崩壊の重い音がし始めた。
実に呆気なく、橋の一部が落ちてしまった。
若者は飛び退くように木から離れるや、腰を屈めて走って来る。
「もっと離れないと危ない。雷が近づいてる」
「雨も来るし、今の内に道を外れてしまうか」
男の間だけで話が纏まる。
丹亜も成も、足を動かすのが精いっぱいで、逆らう余力は残っていなかった。
もう一刻もすれば日が傾く。風に強く波打ち始めた草を分け、四人は街道を逸れていった。