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王家所有地の所為か馬車が入れるようにはなっていたが、森林に道と呼べる代物は無いようだった。
これまでになく酷い揺れに悩まされること数時間。徐々に進みが遅くなり、格子窓から外を見ると、木々がまばらになりつつあった。いよいよ森を抜ける頃合いか。
なれば、馬の歩みも速められそうなものなのに。
もはや、勢いに任せて出国してしまいたかった。
丹亜はそわそわと窓外に目をやっていたが、そのうち、歩いた方が速いのではないかと思えるくらいにのろのろした動きになってしまった。
どうしたのか、と丹亜が呟くと、成が御者台近くの小窓へ問いかける。
手綱を取っている侍士の声が、やや掠れて聞こえた。
「先程から、馬が進みたがらなくなっておりまして……」
「国境と思われる場所まで、後いかほどか」
「さほど無い筈です」
返答に、丹亜は眉をひそめる。城を出る前、年嵩の侍女から進言されたことがよぎった。
関を通って出国した方がいいのではないか、と。
『昔から、関以外の国境は生き物が近づきませぬ』
関を通って出国などできぬ相談で、国境に生き物が居ないとすれば、抜け出そうとしている身には却って好都合の筈だった。
「されば歩こう。馬は引けば良い」
丹亜は、殆ど停止していた馬車の扉に自ら手をかけた。開ける間に、ティエも杖に体重をかけ腰を浮かす気配がある。何処までもついて来るつもりなのか。
しかしながら、こんな森林の外れで置き去りにできない。丹亜は師の下車を助けるつもりで、先に外へ踏み出した。
外は春の日が柔らかく辺りを照らしていたが、何故か、背筋がぞくりとした。
草地に降りるや緊張してくる。
知らず固唾を呑んでから、丹亜はよろりと降りてくるティエの空いた腕を支えた。
老師は降り立つと、右手の杖に縋るようにして左手で腹の辺りを押さえた。やはり何か感じ取っているのか。
馬は、馬車に繋がれたものも侍士を乗せていたものも、その場で足踏みを繰り返すばかりだ。明らかにこの先へ行くのを嫌がっている。手綱を取られていなかったら逃げ出しそうにも見えた。
行く先の視界は悪くなかった。木も茂みも少なくなっていて、大地は緩い起伏を描いている。育ち始めた草が、ひたすらに、緑の衣を幾重にも被せたように広がっていた。
遠く青い空との狭間は羊毛のような雲が幾らかあり、淡く霞んでいる。
巨大な絵の如き光景。
動物の姿が、画家によって描き忘れられたかと思うほど、全く無かった。地にも、空にも。
風がひとひら流れ、丹亜は意を決した。
前に進もう。
けれど、一歩をなかなか思い切れない。
わけもなく、やめておけ、と心の奥底がしきりに忠告してくるのだ。
どうもそれは、丹亜だけではないようだった。同道の皆、立ち尽くしている。遮る物は何も無いのに。
丹亜はぎゅっと目を閉じた。進むしかない己の現状を思い起こす。
二、三歩重い足を動かしたところで、ぐっと腕を掴まれた。悲鳴を呑み込んで振り返ると、ティエだった。
老師は、ゆっくりと白髪混じりの頭を振った。
「そこまでです。わたしの記憶では、もう十数歩で国境です」
「と、止め、ないで……」
言ったものの、どうしてか歯の根が合わない。掴まれた腕も振り払えなかった。何か得体の知れない恐怖が、足元から這い上がって来ていた。
ティエは丹亜の腕を放さず、杖を持った方の手で、不自由そうに懐から布包みを取り出した。
「ルウの民がどのようにして大陸の守護者であるか、一端をお教えいたします」
老爺が包みを開くと、震えながらも傍に控えていた侍女の何人かが声をあげて後ろへ飛び退いた。驚いた馬が暴れそうになり、必死に青い顔の侍士達が御す。
包みから顔を覗かせたのは、潜り蛙だった。冬を土の中で過ごし、暖かくなると出てくる大きめの蛙。
一体いつから、と侍士の一人が口を歪める。一昨日泊まった先の庭で掘り出した、と悪びれもせずにティエは応えた。
「可哀相だが、鳥に食われたと思って諦めてもらう」
不穏な発言に、皆の目が老人と蛙に向く。
布の中の茶色い蛙は馬と同じく、もがいて逃げ出そうとしているように見えた。
「我々の目には見えませんが、ルウの民は関を除いた国境全てに、とある結界を張っております」
ティエは言うなり、蛙を前方に放った。蛙は宙にゆるりと弧を描く。
中程で一瞬、ちかりと光った気がした。
低めに放られたから、前足から綺麗に着地した。しかし、不意に腹を向ける。そしてそのまま跳ねようとし始める。奇妙な、痙攣のような動きだった。
「結界に触れてしまうと、心が食われると言われております」
懸命に蠢く蛙を丹亜が凝視する横で、師の低声が静かに説明した。「つまり、脳に作用するのです。個体差はありますが、影響を受けずに済む者は滅多におりません。術者の力量が桁違いであります故」
お解りいただけましたか、とティエは締め括った。
しばらく、誰も口をきかなかった。
やがて成が、丹亜様、と囁くように発した。
「城に、戻りましょう」
弱く腕を引かれ、丹亜はよろよろと後方へ歩き出す。
小さな生き物は、王女の涙が地にこぼれても尚、足掻き続けていた。
幾ばくかの薬草を摘み、一行は帰路についた。
王家の森が遠ざかった頃、ティエがぽつぽつと語った。
「わたしは四つで親を亡くしました。飢え死にしかけていたところをルウの民に拾われ、皇領アル地区の皇領府で育ったのです」
懐かしげに目をしばたたき、ティエは微笑んだ。「拾ったのは、領内を視察していた新任の主管でした。衣食住に加え、学問も……随分と良くしてもらったものです。お蔭でわたしはルウの民贔屓で、殿下に要らぬ不審を与えてしまったようですな」
相槌も打てず、丹亜は馬車内の座布団に身を沈めていた。老師は一方的に話し続けた。
国境の結界は領結界と呼ばれ、国同士の戦や大規模な人の出入りを抑制する為にルウが編み出した秘術らしい。
本能に訴えかける魔術で、結界そのものに触れる前に、近寄らせないのが目的とされている。代々、ルウの民の中でもとりわけ力の強い皇族が張っているから、大陸の人間にはほぼ漏れなく効き目があるそうだ。
でも完全ではないんですね、と成が述べると、ティエは頷いた。
「ごく稀に、怖れを知らぬ者が居る。豪胆と呼ぶべきか、何かが抜けていると呼ぶべきかは決められぬが。ただ挙句、結界に触れてしまい、無事で済んだ者が居るかというと、そこまでの猛者の話はついぞ聞いたことがない」
格子窓の外へ目を流し、丹亜は溜め息を押し殺した。
自分はまるで城という籠の鳥だと思っていたのに、国自体が柵に覆われていたとは……
塞ぎ込んだ丹亜を乗せた馬車は、葬送の如くに国の中心へ向かった。
日没後、その地の貴族に宿を提供してもらった。
夕食が済み、丹亜が通された一番良い部屋に、ティエが訪れた。
老師は勧められた椅子に腰を落とすや、口を開いた。
「次はお止めしませぬ」
次……? と聞き返しかけた言葉を呑み込み、丹亜は深く頭を下げた。
「此度は、ティエ師にも申し訳なく。あそこで止めてくれたこと、感謝しています」
ティエが居なかったら、恐ろしい事態になっていたろう。丹亜だけでなく幾人もが。
考えただけで寒気がする。身をすくめた丹亜の前で、老師は杖頭に両の掌を重ねた。
「国境を抜けるは不可能であり下策と御理解いただければ、それで宜しい。国を出るには関しかないのです。入る際も同じく」
「……はい」
「我が国に幾つ関が在るかは覚えておいでですか」
「五箇所」
内一つ、ロマ公国方面に向く南東の関は、ここから近い。
師は満足そうに口の両端を上げた。
「わたしはリィリに招かれ四人の教え子を持ちましたが、女性は殿下だけと先日気づきました」
話が飛んで、丹亜は不審の目を向ける。老爺は笑んだまま強調した。「先日まで、気づきませなんだ」
丹亜は口をすぼめる。
「つまり、わたくしが成人を迎える歳となっても一向に女らしくないと仰りたいのか」
はっはっは、とティエは幾本か歯の欠けた口を開けて笑う。扉近くに控えていた成が抗議の視線を投げたが、背中に目の無い師が判る筈もない。
片膝を愉快そうに一つ叩いて笑声をおさめ、ティエは言った。
「殿下は性を超えて王族たられたのですよ。四人の中で特別優秀とは申しませんが、意識だけは国を負って立つ一人として、わたしの前に座しておられた」
思いがけない台詞に、丹亜は目頭が熱くなりかけた。唇を引き結んで顎を引く。
涙をこらえるだけで精一杯の丹亜に、殿下も国を担える、とティエは続けた。
「ですから、王女として、堂々と関を通って出国なさいませ」
え――と言ったつもりだったけれど、喉が詰まって音にはならなかった。ティエ越しに、成が大きく褐色の目を見張っている。自分も、きっと似たり寄ったりの表情をしているだろう。
老師は懐から封書を取り出し、向けてきた。かなり良質の紙だ。受け取って裏返せば封蝋が落とされている。覚えのない印がくっきりと捺されていた。
「皇領月区にも皇領府が設置された筈。月区主管に渡してください。良い薬を融通してくれるでしょう」
「ティエ師――」
漏れ出た声は涙まじりだった。封書を握り締めそうになって、丹亜は慌てて指先の力を緩める。
茶器の乗った卓上に、ティエは小さな布包みを置いた。ついでに足腰に効く薬も見繕ってきてください、とぬけぬけと言う。
丹亜はもはや、頷くしかできなかった。
翌午前、王女に畏まる者達に何食わぬ顔を向け、薬を買い付けに行く、とリィリ王国の南東の関を通過。隣接する皇領の関所で、月区への通行証を取得。一行は皇領アル地区へ入った。
月区に最短で着くには、東の関からの出国が望ましかった。だが、改めてそこを目指すには〝薬草摘み〟で出てきた丹亜には日が足りなかった。関を封鎖される恐れがあったから。
遠ざかる関門を、丹亜は馬車の裏窓から長いこと見ていた。
門の脇に佇む、老師の小さな姿が見えなくなるまで。