花
古語の文章を公用語に訳し終え、彼杞は背伸びをした。
リィリで暮らすようになって、彼杞の仕事は専ら翻訳だ。
丹亜は今度、トショカンというのを都に造りたいそうだ。
この前は医院を造って、ヴィンラ半島から医事者を招く夢を実現させた。
いかにも楽々と叶えているようだけれど、裏側で苦労しているのを彼杞は知っているので、身体を壊さないか心配でしょうがない。
彼杞は丹亜のお蔭で、丈夫になったのに。
丹亜も元気で居てもらわねば非常に困る。何の為に生きているのかわからない。
自室を出て、広い廊下を行く。
第二執政邸は、なかなか立派な屋敷だ。
落ち着いた調度でまとめられ、数人居る使用人も気のいい人ばかり。
居心地に文句を言ったらバチが当たるだろう。ただ、彼杞の部屋から執務室までが遠い。
執務室は屋敷の前部分にある。ここは私用の、奥部分だ。
まだ奥の空間にあたる廊下の向こうから、貫録のある女性使用人が来た。
「あら、旦那様。もうすぐお夕飯ですよ」
うん、と彼杞は笑んだ。
「丹亜を呼んで来る」
「あらあら、もしかして最近、奥様がきちんとお時間にお越しなのは旦那様のお蔭かしら?」
婦人は朗らかに言った。「奥様は食卓より執務机がお好きなようですけど、執務机よりも旦那様がお好きですからね」
厨房の方へ歩いていく姿を見送り、彼杞は、いささかほてった気のする頬を片手でさすった。
そうだといいなと思う。多分、そうなんじゃないかとは思っている。
ずっと、そうでいてもらうには、どうすればいいのか……
彼杞の大事なかみさんは、薄暗くなりかけている執務室で、仄かに角灯に照らされていた。
浮かび上がっている姿に、寸時、見惚れる。
書き物に走らせていた目を、丹亜はちらりと上げた。
活き活きとした大地のような色の瞳が、ほわりと和む。
「コレだけ、目を通してしまう」
ん、と彼杞は短く応じ、手にしていた水盆を近くの小卓に置いた。
丹亜は、切り花をあまり好まない。
だから、移せるように――
精霊級から遠ざかったら、〝緑の手〟にも少々変化が起きた。思うまま操ったり、あまり大きな木を、一気に生やしたりすることはできなくなってしまった。
苗木や植物はこれまで通り生み出せるし、手を使っただけ深寝することがなくなったから、彼杞に何ら不満は無い。
「今日はどんな花?」
紙を机上に置いて、丹亜が穏やかに問うてきた。
どうしようか、と呟くように言って、彼杞は水盆に指先をひたす。
ゆるりと緑の平たい葉が広がって。するりと茎が伸びて。
ぽっ、と音を立てて開花した。
真白くて、先はほんのり紅の色。
いつの間にか隣に丹亜が来ていて、肩先に頬を擦り寄せられた。
「スイレン……とても、素敵。ありがとう、彼杞」
この花の本当の真名、彼杞は知らないのだけれど。
〝酔恋〟なんじゃないかと、思う。