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〝ズーディ〟とは古語で、〝殺す〟とか〝殺せ〟という意味だった。
聞いてすぐ、成が小刀を閃かせ、地を蹴って。
ヒコが茨を生み出し足止めを図ったものの、速度を落とせただけで。
けれども、その間が稔滋に割り入る隙を与えて。
丹亜は救われたのだった。
翌日も翌々日も夏空は晴れ渡り、遮られることもなく、丹亜は二日がかりで城に着いた。
直ちに王の居室に入れば、父は近侍の看病も無く、死にゆくに任せるかのように床に臥せっていた。意識が朦朧としており、医事者は毒物中毒と診断。丹亜が持ち帰った薬も流用し、急ぎ解毒薬の調合に取りかかってくれた。
城内の者達は王女の帰還について全く知らされておらず、唐突に戻ってきた丹亜に右往左往した。
涙ぐんで喜んでくれた者も居れば、対応に惑う者も居た。前者はお払い箱のような扱いを受けていた王女付きの近侍達で、後者は当然ながら廷臣達だった。
叔父の知古瑳は、頭を強く打ち、ほぼ即死だったらしい。
目撃者も多数で、事故死となった。
ただ、王女が城に戻り、国王の病名が知れ、混乱のさなか、遺書と共に自殺したらしき侍医が発見されるや、情勢が変わった。
不慮の死を嘆かれる筈だった宰相は、一夜の内に、国王弑逆未遂犯と認定されてしまった。
王が復帰するまでは、後継の王女が主権を手にする。
自然なこととして、表立って異議を申し立てる者は誰一人、居なかった。
翌日から、丹亜はなんとか周りの助けを借りて廟議を開き、政に取り組んだ。
それを見届けると、医事者だけを残し、大君とユグージャはサージソート王国へ旅立って行った。リィリ国王が快癒されたら改めて伺う、と明言して。
父は一週間ばかり意識の混濁が続いた。だが、医事者が処方する薬を飲むうち、次第に目に生気が戻り、八日目、丹亜、と温かい声で名を呼んでくれた。
二週間経つ頃には、病床より執務指示を出せるまでになった。医事者は、あまりいい顔をしなかったが。
父が出した指示の中には、丹亜が決断に踏み切れずにいた件もあって……
城の地下牢の住人となっていた王弟妃とその一族の数人は、王命により、国王と王子へ毒を盛った咎で処刑された。
丹亜の婚約者となるかもしれなかった従弟は、皇領アル地区の孤児院へ、ルウの民の養子として引き取られていった。
それで丹亜も、覚悟が決まった。
皇領アル地区にある石壁に囲まれた収監所は、薄暗く、蒸していた。
鉄格子の向こうに成の姿が見え、丹亜は顎を引く。
丹亜様――と少女は小走りに駆けてきた。
少し痩せたようだが、相変わらず女性らしい、柔らかく優しげな風情だった。
格子越しに、久しぶりに二人は顔を合わせた。
成は寸時ためらうように床へ目を落としてから、ネンじーは……と問うてきた。丹亜は、緩く首を振った。
「あの日の、夕方頃に」
成は項垂れると、ぼそぼそと言った。
「わたし……宰相が、何か口汚く叫んだので……ついカッとなって、小刀を投げつけようとしたら――そうしたら、なんでかネンじーが……っ」
「……間に、ネンじいが飛び込んできてしまったのだと……ルウの方からも聞いてる」
事情聴取で、成はそう話したらしい。
事は皇領内で起こった為、成の身柄はルウの民預かりとなっていた。リィリ王国人だからと身柄の引き渡しを願うことは可能だったが、最初の数日は他事に忙殺され叶わず、その後は……
街道で離れ離れになるまで一緒だった近侍の数人は、成が共に帰国しなかったことに、やはり、という反応を見せた。
『あの時、追っ手を分散させるならまだしも、成は殿下の名をわざわざ叫び、位置を知らせたようだったので……』
思ってもみなかった見解だった。
動揺を鎮められないうちに、皇領アル地区現主管印の捺された書類が届いた。
第三者の目撃証言と齟齬があった為、暗示術という自白を促せる魔術を以って、成・トウズより得た証言――
六歳でリィリ王国宰相に取り立てられ、王女の監視と状況次第での暗殺を命じられ、十歳で王女付き侍女として城に上がった事。
ゆくゆくは王妃付き侍女頭の地位が約束されていた事。
暗殺の合言葉は〝ズーディ〟だった事。
五年近くの間に情がわいてきていた事。
しかしながら此の度、出国したことで、日を追うごとに親愛が薄れていった事。
暗殺決行時に迷いは無く、邪魔をされたことに立腹している事――
失礼ながら信じられぬ、と抗議を申し立てに出向いた丹亜の前で、ルウの民は成に今一度、術をかけた。
丹亜の目の前で、少女は虚ろな眼差しで語った。
貴いと思っていた血縁は、いい加減。下賤の者から好き放題に言われ、反論もできない。同じ年だというのに、生きていく上で必要な、数々のこともまともにできない。そのくせ、一人前に知恵者ぶる……
『――なのに、わたしが得られないモノを簡単に手に入れる。ヒコまで……わたしがあんなに心を尽くしたのに、どうしてか、あの娘に――』
眼前で赤裸々に告げられ。
丹亜は、どうすれば良かったのか、どうすれば良いのか、判らなくなってしまった。
しかし、丹亜は、リィリの王女として生きていく道がのびてしまったのだから――
「わたし、一体、いつまでここに……」
成が、縋るように見てきた。「わざとじゃなかったけど、ネンじーに悪いことしたし、お墓に謝りに行きたいです」
潤んだ褐色の双眸から目を落とし、丹亜はまた首を振った。
「墓は、まだ……月区の関門の傍に、ユグージャ殿が、いいのを作ってくださるそうよ」
「……遠いですね」
成、と、丹亜はとても近しかった同い年の少女を見つめた。
「主管殿のお話では、皇領での殺人に対する罰は死刑らしい。わたくしは、解りましたとお伝えしてきた」
薄暗い中でも判るほど、成は青ざめた。唇を震わせる。
「に、丹亜様――わたし、わたし、わざとじゃなかったんです、本当です!」
「リィリでは、王族への冒涜行為が同じ刑罰で、一族にも累が及んでしまう」
親族は、四女の成にさしたる情が無く、売り渡すかの如く城へ追いやったようなのだけれど……
だからこそ、成は迷いなく刃を繰り出せたのか。
丹亜様ッ、と鉄格子にしがみついた成を、丹亜は記憶に焼き付けた。
「成、わたしは、信じている」
四人で日々の糧を得、一日一日を懸命に過ごし、明日はいい日だと笑い合った。
あれは本心からだったと、信じている。
叫び続けられる己が名を背中で受け、丹亜は収監所を後にした。
成はその晩、薬によって、苦しみ少なく処罰された。
丹亜は眠れずに数夜を明かしたが、リィリ王国は、何事も無かったかのように、日々が繰り返されていく。
ヒコは稔滋が亡くなってから四日目に眠りから覚め、その後、体力を回復させていった。
夏場ということもあり、変色した遺体を見せるのは酷だと、稔滋は速やかに火葬されていた。だからヒコには、幾つかの遺品に加え、遺骨と灰が残されていた。
満足そうだった最期は、丹亜の口から伝えた。
生き切ったんだね……と、少年は僅かに睫毛を伏せた。
丹亜もヒコも、涙が出なかった。
悲しみが、強過ぎたのか。
それとも当人が、あんまり泣くな、と言っていたのを覚えていたからか……
賑わいそうな墓を作ろうとユグージャが言ってくれていたから、ヒコは詳しく話を聞く為、丹亜の客人として国に滞在していた。
離宮で医事者に経過を診てもらっていた、身重の二妃も城に戻って来れた。
父の体調もかなり良くなり、八の月の末になって、皇領月区の元首長と新首長を迎えることが叶った。
ヒコもユグージャと話をする機会を得て、具体的に稔滋の墓所についてまとまったようだ。
大君達は長居せず、歓談の時間を過ごした後、瞬間移動で帰っていった。
ヒコも共に行ってしまうかと思っていたから、残ってくれて、丹亜はちょっぴり心が安らいでいたのだけれど。
数日後、末呉羅やティエの墓へ花を手向けに出た折、丹亜は同行したヒコから、近日リィリを発つと、知らされた。
「ユグージャ爺ちゃんは、瞬間移動でもう月区に着いてるからね。オレはこれから馬で出れば、月区に着く頃にはネンじいのお墓も出来てる。骨と灰を、埋めてあげられる」
末呉羅の墓石の周りに可憐な花を咲かせ、ヒコは目を細めた。「ネンじいのお墓にも花を」
「喜ぶね」
わたしも行きたい、とは言えなかった。
成人前だったが、丹亜は王位の後継者として正式に公表された。国政について、もっともっと父の元で学んでいかなくてはならない。
リィリが、いい明日を迎えられるように。
失われた数々の命に報いるすべとして、丹亜はそれしか思いつけなかった。
王家の墓所を出た後、ヒコはティエの墓石の傍らにも、葉のすっと伸びた清楚な花を添えてくれた。
閑静な墓地を出て、つかず離れず従う侍士に目をやりつつ、ヒコは悪戯っぽく言った。
「この国に泉が多いと聞いて、ここなら泳いでも怒られないかもな、ってネンじいが言ってたんだよ。どうなんだろう」
「王家の森の泉なら、構わないよ」
「オレ、泳げないんだよね。教えてやるってネンじいが張り切ってたけど……そろそろ教わってばかりじゃなくて、自力で覚えなきゃなぁ」
小さく笑うヒコを、丹亜は見やった。
「ヒコ、リィリにまた来る……?」
曇りの無い翠の瞳が、見返してきた。
「丹亜が居るもの」
良かった……と丹亜は強張っていた頬が緩んだ。
悲しい思い出の地になってしまったから、足が遠のくかと心配だった。
「見送るから、はっきり決まったら教えて」
うん、と気安い返事を耳に心地好く感じ、丹亜は真名の約束を思い出していた。
碧い空が、高く感じられる日だった。
リィリ王国の東の関から、ヒコは皇領月区へ向かう。
皇領に興味を持っている若い侍士が二人同行し、三人で、幌馬車でゆるゆると旅を楽しむことになった。
関所の手前で、丹亜はヒコに紙片を手渡した。
「気に入らなかったら、決め直す」
どれどれ、と少年はそわそわと二つに折っていた紙を開く。あまり期待されると緊張するものだなと、丹亜は下唇を噛んで反応を窺った。
ヒコは、やんわりと顔をほころばせた。
「〝こ〟の真名、長寿の意味があったでしょ」
いささか驚いて、丹亜は頷く。
「よく覚えてるね」
「あの巻物庫がある宿で、横に〝木〟のある真名を探してくれているのに気づいた」
何やら面映ゆくなってきて、丹亜はもじもじとうつむいた。
悩んで悩んで、ヒコらしい真名にしようと思っていたのに。選んだ真名は、願いを託すモノになってしまった。
【彼杞】
たくさん楽しんで、彼には生きてほしい。丹亜より先に、この世から居なくならないでほしい。
頭上で、ありがと、と幸せそうにヒコが言った。
「今度の選挙の時、ちゃんと〝彼杞・スー〟って書くよ」
うん、と丹亜は頬の熱さに戸惑いながら、少年を見上げた。
「元気で――気をつけて。たまに便りが貰えたら、嬉しいな」
ヒコは紙を折り直して懐にしまってから、ほんの僅か上の空で、うん、と応じた。つと、視線を彷徨わせる。
丹亜の近侍達は一定の距離を置いてくれていたし、ヒコの道連れもさり気なくこちらを見ずに馬車の整備をしている。
一つ深呼吸してから、少年はやにわに丹亜を抱き締めた。耳元で囁いてくる。
「君は王女様だし、多分、無理だろうけど――オレは、丹亜以外に精霊級から遠ざけてもらうつもりはないから」
耳まで熱くなってきて、丹亜は取り敢えず、抱き締め返した。
速い鼓動が伝わって、互いが生きていると実感した。
先のことは判らないけれど、ヒコへの気持ちは本物だ。
だから――
「なんとかする」
丹亜は身を放しつつ、何か漲るモノを心奥に得て、笑んだ。「必ず、帰ってきて」
ヒコは顔を赤らめて、もう一度、かき抱いてきた。
その辺で……と、近侍と道連れの双方から声がかかった。
出国の手続が済んだ。
顔に赤みを残したヒコが馬車の荷台に後ろ向きに腰かけ、きっと同じような顔色だろう丹亜は照れつつも手を振る。
ゆっくりと、馬車が走り出した。
少年は横笛を口にあてると、小鳥のお喋りのような、可愛らしく軽やかな曲を奏で始めた。
旋律が、草原に、陽気な風となって流れていった。
(『リィリ史』より抜粋)
【六暦二一四年 玻璃磨王(四八)、後年の王制廃止を宣言
六暦二二〇年 玻璃磨王(五四)、退位
丹亜女王(二四)、即位
六暦二二二年 リィリ王国、リィリ共和国へ
玻璃磨・リィリ(五六)、丹亜・リィリ(二六)、初代執政に就任
六暦二二五年 議会選挙による執政選出が始まる
丹亜・リー・スー(二九)、初当選】