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出立の日、昼前に、丹亜はヒコの居る部屋を訪れた。
昨日のうちに起き出せるようになっていて、今日もだいぶ体調は戻っているようだ。それでも医事者が、もう少し回復するまで大人しくしていた方がいいと言い、ヒコは渋々といった感で寝台周りで過ごしていた。
瞬間移動の陣を使えば又、繊細な精霊級の身体が闇魔術の影響を受けてしまうのは明らかだ。
だから皆、ヒコに日程を告げていなかった。
稔滋が府庁に残り、後々伝えてもらうことになっている。
丹亜が部屋に入ると、寝台に座り込んでいたヒコは横笛を袋にしまうところだった。手持ち無沙汰で磨いていたのだろう。
一人で歩み寄る丹亜を見上げてから、ヒコは少し困ったように目を落とした。丹亜が横に腰かけると、腰を浮かせる。
「な、何」
「暇だったから。ヒコも、そうじゃないかと思って」
「うん、まぁ……」
ヒコは間に二人は座れそうな程の距離を置いて座り直した。「あー、ごめん。オレ、足引っ張ってるよね」
「全然。気にしないで」
丹亜は、気づいたのだ。「貴男を失うわけにはいかないもの」
澄んだ翠の瞳がこちらを映す。照れ臭そうに、ヒコは頭を掻いた。
「大人しくして、早く元気になるよ」
うん、と丹亜は笑んだ。
真名が贈れなかったことを謝罪するのはやめた。
そんなことを最後の思い出にされるのは、嫌だったから。
府司によって、二日の間に、リィリ国内について幾つか調べ上げられていた。
北東、国境近くに数人集まっては引き返していく事。
北東の関門に、来賓を出迎えるには重々しい空気で警邏隊が集結している事。
宰相が直々に関へ向かっているらしい事。
一点目に関して、大君が冷ややかに目を細めていた。その意味が、丹亜も解る。
領結界に挫かれて未遂という結果になっているが、関以外から秘かに出国を図ろうとしている者が居るのだ。
何を意図してのことか。
とにかくも〝歓迎〟が口先だけらしいと、察せられる動きだった。
正午頃、リィリ王国から馬車で一日の地点にある街道沿いの街に、丹亜達は瞬間移動で到着した。
大切な存在と、ずっと追ってきた背中とも別れて……
食欲が無かったけれど、前もって主管補佐が予約していたという食堂に入り、昼餉の卓を囲む。
八十歳に迫るユグージャ老人は、二度の瞬間移動にも平然としていた。魅力的な少女を、今日も目の保養にしている。
成は、ついて来てしまった。ヒコの傍に、と丹亜は言ったのだが、医事者様がもうほぼ大丈夫だと仰ってましたから、と、侍女であることを選択してしまった。
ヒコの為に滋養の薬を調合してくれた医事者は、次はリィリ国王を往診してくれる予定になっている。
大君は、メイフェス島ならば午前〇時過ぎという只今の時刻、食事はとらずに眠気覚ましの濃い緑茶を飲んでいた。
北皇領府から、主管補佐も随行している。彼は大陸時間で生活しているようで、丹亜達と共に食べていた。
国主の公式訪問となれば、もっと大勢従いそうなものだが、リィリに入国するのはこれで全てである。
食後、速やかに一行は街を後にした。
四頭立ての馬車が行く街道は、他に通る者が無い。今回の訪問に際し、皇領側の関所を閉鎖しているからだ。
街の周辺に並ぶ賑々しい墓碑群を抜け、真っ直ぐリィリへ向かう。
単調な車体の揺れに、大君がうたた寝を始める。
沈黙を嫌って、丹亜は斜め向かいの主管補佐に小声で尋ねた。
「サージソートも不穏と聞いているのですが、大丈夫なのですか」
大陸西北方に在るサージソート王国は、間に皇領アル地区を挟んでいるが月区よりは近い。近い分、きな臭い話にはリィリも警戒が必要だった。
月区の補佐より若く多弁なこちらの補佐は、すぐに応えてくれた。
「リィリの動きに触発され、無用にルウの民を警戒してしまったと釈明されました。元首長と新首長の訪問を歓迎するとのことです。只今は関も平常の人数に戻っています」
すると、今やリィリだけが過剰反応しているというわけか。
ユグージャが皮肉っぽく口の端を上げた。
「かの女王陛下は抜け目ない御方ですな」
そのようで、と補佐も口角を上げる。
「関に人を集め出したのはサージソートの方が早かったようなんですよ。触発とは言えませんね。ま、穏便に済ませる気なら、我々はそれがいいですけどね」
リィリもそう済ませるわけにはいかないんだろうか……
窓外を流れる草原を見て、丹亜は溜め息をこらえる。
別れたばかりなのに、乾いた草の香がしていた二人が、ひどく懐かしかった。
街とは言えない街道沿いの宿場で夕餉をとった後、御者と馬をかえ、馬車は宵闇に包まれつつある道を再び走り出した。
大君は目覚めたが、車内も夜に覆われ、他の面々が徐々に眠そうな顔つきになる。老爺がうつらうつらとし始めて、主管補佐が座布団を幾つも後ろにあてがった。車内はそう広くなく、楽に眠れるように皆で空間を作る。
ユグージャが完全に寝息を立て出し、周りも思い思いの体勢で、それぞれ目を閉じた。
丹亜も瞼を伏せたけれど、この数日、寝台でさえ熟睡できずにいた。成も落ち着かない風で、もぞもぞと動く気配がある。
せめて、この同い年の少女は救いたかった。
十の時から身近に居て、この四ヵ月間も、ただ一人ついて来てくれた。侍女というより、もう幼馴染みのような存在だ。女らしく、優しく、やる時はやる芯の強さは丹亜の憧れだった。
何より、大事な人の為に、どうしても生きていってほしい。
リィリへ入国した後、侍女達に紛れさせるか、叶うならすぐに国から出したい。だが果たして、自分にそんな権限があるかどうか……
己の非力に眉を寄せた時、蹄の音が、とささめく主管補佐の声がした。うむ、と大君が応じる。丹亜は目を開けた。しかし真っ暗だ。
闇の中で辛うじて人の形が判別できるようになった頃、丹亜も馬車の物音に別な音が混じっているのを聞き取った。疾駆する馬か。
「メイフェスの馬にございます」
窓に顔を寄せているらしき補佐が告げた。ルウの民だけが騎乗するという、大きめの馬のことだろうか。
御者に徐行が指示され、馬車の速度が落ちる。
街道を蹴って迫る蹄の音が大きくなり、やがて、はぁーあ、と耳を疑う声が外から飛び込んできた。
「追い着いたぞぉ、ヒコ。起きろー」
少々息を切らして声が言う。主管補佐の手がぽうっと淡く光る。手を明かりにして掲げた先に、立派な馬に乗る稔滋の姿があった。その背に力無くもたれかかって、ヒコも居る。
目を覚ました医事者が、照らし出された外を見て、呆れた声をあげた。
「何をしてるんですかっ」
「こいつ、陣に飛び込んじまったんだよ」
稔滋は親指の先で背後を示し、肩をすくめる。「次ぃ惚れた女にはお前から言わないとなって、助言してやったらさぁ」
はぁ? と医事者は呆れ声のままで馬車を降りる。
「せっかく元に戻ってきてたのに、また弱っちゃって――あんまり繰り返したら死んじゃいますからねっ? おまけに馬なんかに乗っちゃ駄目でしょう」
「来ちまったからには、追い着かないとなぁ。ルウが馬、貸してくれたし」
ヒコは稔滋の背に縛り付けられていた。主管補佐が革紐をほどく間、稔滋は興奮気味に続けた。「しっかし、すげぇ馬だなぁ。男二人乗ってんのに思い切り走って来れたぜ」
「わしももう少し若かったら乗りたかったな」
ユグージャ老人も起きてしまったようで、窓の外に顔を出す。
まぁ休憩にしよう、と大君が言い、夜の草地に一行は降り立った。
主管補佐が魔術を使って簡単に火を起こす。御者が広げてくれた大きめの毛布に、失神しているヒコが横たえられた。成が傍らに座り、莫迦なんだから……と布で汗を拭ってやる。
丹亜は、出された茶を美味そうに啜る稔滋に詰め寄った。
「後々伝えてって言ったのに、追い着けるうちに喋ってどうするの!」
「成り行きってヤツさ。しょうがねぇだろ」
どういう話をしていたらこうなってしまうんだと更に問い詰めかけたところへ、口をすぼめた成が来た。
「ヒコが、気がついて――丹亜様を、呼んでます」
ほれ行け、と稔滋がにやにやして手を払う。笑い事か、と丹亜は表現しがたい心地で立ち上がった。
そっと傍に膝を落とすと、ヒコは思いのほか強い力で丹亜の手を握ってきた。
何を言えばいいのか判らなくて、ヒコ、と丹亜は名を呼ぶ。少年は息を乱しつつも、言葉を紡いだ。
「丹亜……オレも、失いたく、ないんだ」
ややの間、丹亜はその真意がはかれず。
謝意を込めて微笑むと、ヒコは安堵したように睫毛を伏せた。
眠ってしまったようなのに、丹亜の手を離そうとしなくて。
それで、成じゃなかったのだと悟った。
ヒコは馬車に担ぎ込まれ、主管補佐が馬上の人となり、稔滋は御者台に並んだ。
人数を増した一行は、夜の中を再出発した。




