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月区に近づくごと、人々の髪や肌や目の色、服装は多様になっていた。
六暦開暦と共に公用語が定められ、他言語を用いる人の数は減っている。が、地方の言葉は幾つか根強く残っていた。そのことを示すように、時折、異国の言葉が耳に届いた。
月区に最も近い街に着いたのは、七の月二週も終わる日暮れ前だった。
さして大きい街ではなさそうなのに、また選挙でもあるのかという賑わいぶりだった。
宿を探しつつ、はぐれんなよ、と稔滋が何度も言う。その度、荷袋を腹の前で抱えるようにした丹亜は頷く。
丹亜も成も〝お嬢様〟がだいぶん抜けたと思うのだが、稔滋からするとまだまだのようだった。
とにかくも、この人混みでは世間知らずでなくとも迷子になりかねない。馬を引く稔滋の背中を、丹亜は一所懸命、追った。その後ろを、もう一頭と成の腕を引くヒコが続く。
五軒目に覗いた宿も満室で、奮発できそうか? と稔滋がヒコを見た。疲れたぁ、と成も訴える眼差しを向ける。
ヒコは首肯したようだったが、つと、路地を挟んだ斜向かいに視線を止めた。つられて目を流せば、三階建ての落ち着いた木造家に、異国語の彫られた丸看板が下がっている。
いや、異国語というより、あれは……
「〝食事・宿・巻物〟って書いてある」
ヒコの台詞に、変なのが混じってるな、と稔滋は看板に目を向ける。古語か、と洩らした。
「主が術者としたら洒落にならんが……まぁ、覗いてみるか」
稔滋が歩き出し、条件反射的に丹亜は追う。背後で、家型の看板じゃないじゃない、と成が不安げな声で言った。積極的に集客したい店でないことは確かだ。
しかし稔滋が扉を開けるや、いらっしゃいませ! と元気な子供の声が聞こえた。
十歳前後の少年が駆けてくる。泊まれるかな、と稔滋が問えば、丸い目をキラキラさせて頷いた。
こっちだよ、と颯爽と階段に足をかけるので、稔滋が慌てて厩の有無やら宿代の詳細を尋ねる。子供は、なかなかにしっかりした返答をしてきた。
希望の条件は整っているようだった。いつも選ぶ宿よりは高値だったが、奮発と言う程でもない。
ただ、そろそろ日が傾き始めたというのに、一階の食堂が空席だらけだった。ざっと見て八卓はあったが、客が二組しか居ない。一人ずつの客で、どちらも何処となく陰気な風情で黙々と食事している。
丹亜がそちらに気を取られている間に、稔滋とヒコはここでいいと結論付けたらしい。厩は裏手だよ、と子供が扉から出て先に立つので、四人でついて行く。
横手の小路を弾むような足取りで歩きながら、子供が言った。
「ウチの看板読めるなんて、小父さん、見かけによらないねっ」
「学の無さが滲み出てて悪かったな」
稔滋がボソッと言う。可笑しそうに笑う子供に、後ろから成が告げた。
「読めたのは、こっちのお兄ちゃんよ」
子供は足を緩めてヒコを見上げる。
「んー、でもやっぱり見かけによらないよ。本当に読めたのー?」
丹亜には、あの看板の意味までは理解できなかった。古語ではないかと察するまでが限界だった。
子供からヒコへ目を移すと、綺麗な唇が耳慣れない単語を紡いだ。
「〝メイ・タディ・アルリラカン〟と書いてあったよ」
「〝食事・宿・巻物〟だろう」
すかさず稔滋が知ったかぶる。読めてるや、と子供は口をすぼめた。
「巻物は三階にあるからね。丁寧に扱ってくれれば、泊まってる間、好きなだけ読んでいいよ」
「もしや、古語の巻物か」
稔滋の問に、そう、と子供は答える。
「じいちゃんが趣味で集めたの。古語の他にも色々あるらしいよ」
「なんだか貴重そうだなぁ」
「貴重だよ。たまに、売ってくれって商人が来るもん。でもばあちゃん、絶対売らないって追い返すよ」
厩に馬を入れると、オレがちゃんと世話しておくよ、と子供は宿の裏口から中に飛び込んでいった。大声で、お客さんが行くよーっ、と叫ぶ。
家族四人だけで経営しているということだった。
丹亜達が宿の入口に戻れば、奥からあたふたと出てきた子供の母親が、部屋に案内しながら一方的に語ってくれた。
巻物を収集した当人は既に亡く、遺された物の九割を家族は読めないのだという。それでも手放す気にはなれず、さりとて商人が目をつける程の代物をただ保管しておくのは惜しい。
しこうして、趣味人向けの、こんな店が誕生した。
意外と常連客が居る上、ルウの民も目をかけてくれているらしい。それでなんとか、やり繰りできているそうだ。
『お食事は大体いつでも御用意できますけど、子供を夜更かしさせたくないんでねぇ、できれば午後八時半までにお願いします』
他の宿より一刻ばかり早いが問題は無い。どう見ても、満席で他を当たるしかない状況にはなりそうになかった。
そんなこんなで、思いがけず時間に余裕が出来た。
さっさと利用権を取ってきとくか、と稔滋と成は警備所へ出かける。
宿に残された二人の間に、沈黙が降りた。
丹亜はうつむきがちに荷袋から着替えを探す。ヒコもごそごそと荷をあさる気配がする。
この頃なんとなく、ヒコと二人だけになってしまうと気まずかった。
初めヒコの技を気味悪がっていた成は段々と慣れていって――このところの公演では、花が見れないと淋しいですね、と言っていた。
成はヒコを嫌いじゃないだろう。とすると、成はヒコを精霊級から遠ざける〝手助け〟ができる。いつでも花を咲かせてもらえるだろう。
けれど、そんなことを丹亜は説明できなかった。
方法なんて問うのではなかったと思う。余計なことを知ってしまったと思う。
成に聞かれずに済んだのは幸いだったろうが、本当なら他の誰にも、あまり聞かれたくなかったろう。
それが証拠に、ヒコは時々、所作がぎごちなくなるようになった。
けほん、と下手な咳払いが聞こえ、丹亜は焦って着替えを引っ張り出しつつヒコを見た。少年は横笛を磨いていたのか、細長い袋にしまいながら言った。
「あー、明日が、月区到着前の最後の公演になるだろうね」
うん、と丹亜が顎を引くと、翠の双眸がこちらをちらりと見た。「薬代は、足りそうなの?」
「判らない。けど、みんなのお蔭で、初めに持って来ていたくらいの額は貯まったと思ってる」
ヒコが、なら良かった、と、ちょっと笑んで。
不意に、丹亜は気づいた。
薬代の為に、ヒコは稔滋と二人で旅していた時よりも〝緑の手〟を使っていたのか――
落ち着かなさに押されて、丹亜は立ち上がった。
「その、ちょっと――三階に行ってくる」
ん、とヒコは短く応じ、角灯を取ると、扉を開けかけていた丹亜の所に来る。扉脇に掛かっていた部屋の鍵も手にするので、丹亜は口早に告げた。「ちょっと見てくるだけ――一人で」
「オレも行く」
今し方の窺うような様子は消え、譲らない光が目に宿っていた。「一人は駄目。古語に興味を持つ人の中には、少なからず術者が居る」
六暦以前は二十人に一人は術者だったそうだが、昨今、ルウの民はともかく、大陸で魔術の力を持って生まれる者など、精霊級並に少ない筈だった。
それを丹亜は主張したかったけれど、精霊級を引き合いに出すのが憚られた。下唇を僅かに噛むと、行くよ、と腕を引かれる。
『殿下は只今、城にて与えられておりますが、いずれ城から与える側に回らねばなりませぬ』
かつてティエから受けた教えがよぎり、丹亜は情けない心地で部屋を出る。
自分は未だ、護られ、与えられるばかりだった。
三階は丸々、巻物の保管と閲覧の為の部屋になっていた。
入口の大きめの扉には、古語の文章が彫られていた。ヒコが訳したところによると、〝盗難避けの術が施してあります〟とのこと。
部屋に踏み入れば、壁をぐるりと棚が囲み、大量の巻物が並べられていた。中央に卓と椅子の揃いが三組、長椅子が二脚だけあった。先客が居ればほぼ一目で判る配置で、今は他に誰も居なかった。
防虫香の臭いが微かにする中を、丹亜は手近な棚に歩み寄る。札を木釘で打ってあり、ヒコが掲げてくれた角灯に照らされ、公用語で巻物の種類が書かれているのが判った。この周辺の古い歴史を綴った物が収まっているようだ。
順番に札を見ていくうち、のんびりと一緒に歩いていたヒコが静かに言った。
「丹亜は、真名も殆ど読めるんだね」
「大体は」
応えてから、丹亜は意外に思ってヒコを見た。少年は口の端を上げる。
「オレ、あんまり。ネンじいに教えてもらった分だけ」
「そうだったの」
果ての地は古語が現役ということだろうか。
目の前の札を指しながら、丹亜は告げた。
「この辺は魔術の資料みたいよ」
「あぁ、それで。この棚の巻物は少し傷みが激しいよね」
「術力がたくさん無いと、大した魔術はできないと教わったけど……」
「最近、大陸にも結構強い人が生まれてると聞いてる。ルウの民がヴィンラ島にいざなってるらしいよ」
「じゃ、ヴィンラ島で編み出された秘術っていうのは、魔術!?」
思わず丹亜が声をあげると、ヒコは軽く身を引いて小首を傾げた。
「旅人の間に流れていた話だから、オレはそんなに詳しくない」
単なる魔術としたら、がっかりだ。そっか……と丹亜は息をついて隣の棚へ移動する。
その棚からは、札を声に出して読みあげていった。
公用語の物ではリィリ城内の巻物庫に及ばなかったが、古語の物となるとこの小さな宿が完全に抜きん出ている。見事な収集品と言えた。
最後の棚には、古語や真名の字典が揃っているようだった。
丹亜が札を読み終えると、ふぅん、とヒコは鼻で応じてから、並ぶ巻物をじっと見た。
「オレに合いそうな真名、載ってる……?」
忘れたわけではなかったが、一ヵ月以上前のことをヒコが覚えていて、期待していたらしいことに動揺した。丹亜は平静を装いながら巻物へ手をのばす。
「いい機会だから、探す?」
ヒコははにかんだように口元を緩めると、うん、と長椅子に座り込んだ。丹亜は隣に腰かけると巻物を紐解く。
〝ひ〟と〝こ〟の音がある真名を幾つもとり上げ、当人にも字義を説明して意見を聞く。
真剣に文字を追っていると、居た居た、と稔滋の声がした。温かな角灯の光と共に、稔滋と成が入って来る。
おかえり、と声をかければ、成が、許可得ましたよー、と豊かな胸を反らす。
「食事にしましょうよ。下、割と美味しそうな匂いが漂ってましたよ」
じゃあまた後で、とヒコが言って、丹亜は巻物を巻き直す。
随分熱心だったな、と稔滋が帯に片手の親指を挟みつつ少年を見やった。
「古語の何かを読んで聞かせてたのか?」
「名前の真名を選んでた」
ヒコが嬉しそうに応えて、お、いい真名あったか? と稔滋が興味深げに問う。
たくさんあって迷ってる、と少年が告げるのを聞きながら、丹亜は元の棚へ向かった。
「丹亜様に真名を贈ってもらえるだけで名誉なんだから、贅沢言ったらバチが当たるわよ、ヒコ」
成の不服そうな声音に、丹亜は戸惑って振り返った。まぁそういやそうだな、と稔滋が肩をすくめる。
「夢みたいな話だな、王女様から賜るなんて」
ヒコの笑顔が揺れたのは、角灯の火の所為か。頭を掻いて、だね、と口角を上げたまま短く応じる。
いつの間にヒコにばらしていたんだと丹亜は稔滋を一瞥したが、口が軽いのは解っていたので想定内ではあった。
椅子から棚へと薄く横たわる宵闇が、自分と三人を隔てていて。
丹亜は、大股に三人の傍に戻った。
「わたし、旅のオヒネリ集めだよ」
長椅子から立ったヒコを軽く見上げて、丹亜は笑んだ。「友人に、真名を贈りたいだけ」
食堂、やっぱり空いてるの? とすぐに話を変えれば、ばっちり半分は、と成が気を取り直したように応じた。
悠々と席が取れるのなんて初めてじゃないかと、少女二人は話しながら部屋を出る。
階段を降りていく少女達から、稔滋は横に視線を流す。くたりとなっている背を、べしっと叩いた。
顔をしかめて背中へ手をやるヒコに、稔滋は愉快げに黒眼を眇める。
「馬ぁ、代わってやろうか」
少年は、益々渋面になった。いい、と言い捨て、部屋を出ていく。
「御せなくなる」
小さな呟きに、若ぇな、と稔滋は笑った。




