きみからのプレゼントは
〈きみからのプレゼントは〉
カレシと喧嘩をした。
まったく最低な女だ、あたしは。
クリスマス・イヴの夜。オンボロアパートの一室で。
狭苦しいテーブル一面に豪華な料理を揃えて、あたしは彼の帰宅を待っていた。
食卓を色鮮やかに飾る前菜たちもさることながら、主役はその中心に鎮座し、他とは桁違いの存在感を湯気とともに放っている。
七面鳥の丸焼き。
作り方をネットで調べ、二週間も前から準備を重ねてきた代物だ。
冷蔵庫で出番を待つ特大のホワイトケーキも、これには負ける。
すべては彼と素敵なイヴを送るため。
同じ会社の先輩であるカレシは、今日は二時間の残業だった。
面倒くさいと愚痴っていたが、それも実はあたしの差し金だ。料理をサプライズで用意するため、上司に残業を命じてもらうよう依頼したのだ。
「ふふ、早く帰ってこないかな♪」
思わずひとり言が漏れ、その無意識の発言に、自分がいかに浮かれているかを知る。
「だって仕方ないじゃないの」
クリスマスといえば? ――そう、プレゼントだ。
そして、カレシからのそれを、あたしはなんとなく察していた。
左手の薬指専用の、幸せの指輪。
いきなり指のサイズを尋ねてきたり、新居を探そうと提案してきたり、あいつってば本当に隠すのが下手。
まあ、だからこそこうして最高の夜にするためのお膳立てができるわけだけど。
ピンポーン♪
鳴り響くインターホンの音色も、どことなく軽快に聴こえる。
ドタドタと騒がしく玄関に向かい、扉を開けばそこはもう、ふたりだけの空間。
「ただいま、美佳」
「もう、遅かったじゃない」
笑顔で迎えたい気持ちを照れ臭いので堪え、あたしは頬をぷうっと膨らませて彼を睨んだ。我ながら演技派だと感心する。
視線が交錯し、目ざとくそれを見破ったカレシは「ははーっ、どうかお許しください」とわざとらしく頭を垂れた。差し出される手には献上品らしき包装が――
「……なに、それ?」
予想外の闖入物に、つい怪訝な視線で尋ねてしまった。
カレシは笑顔のまま、中身は某お菓子会社のチョコレートだ、同僚の女性から頂いたのだと説明する。
そして、事件は起きた。
「行男の――馬鹿ぁ!」
瞬発的な怒りが引き金となり、あたしは後ろ手に隠し持っていた“それ”を力いっぱい投擲した。
狙うは行男の顔面、そして見事に額へ爽快な音を立てて直撃した。
行男の阿呆! せっかくの聖夜に他の女の話題を出して、あまつさえその女からもらったプレゼントを嬉々として見せるなんて、信じられない!
彼が背中から派手に倒れ込むのを視認してから、寝室に閉じこもる。もちろん施錠も忘れない。
さっき投げたのは、行男へのプレゼント“だった”もの。
具体的には、ついさっき聞いたお菓子会社のブランドで、チョコレートで、十二個入りだった。
要するに――モロ被りしていた。
「馬鹿、馬鹿、馬鹿!」
そうして激怒の興奮冷めやらぬまま、床に就いて毛布を頭までかぶった。
もはや義憤とも呼べる激情に従い、もう当分の間は許してあげないんだから、と決意する。
その夜から、行男とは顔を合わせていない。
★
まあ一晩もすれば、さすがに冷静になるわけで。
煮えくり返った業腹な感情は、ひとまず鳴りを潜めていた。
改めて昨日の惨劇を頭で反復してみると、行男にもさほど非はないのかもしれないと思えた。
確かに彼の無神経が気に障ったのは事実だ。だがそこに悪意はないはず。彼は天然というか、空気を読めないという非常に稀有な才能の保持者なのだ。
そして、あたしはそんな一面も含めて、行男が好きなのだと断言できる。
ならば諸悪の根源はなにか? 言わずもがな、彼が同僚から贈られたという、無粋かつ無法なプレゼントだ。
今日も行男と別々に出勤したあたしは、部署に入ってその贈り主をさりげなく視線で探した。文句のひとつでも言ってやらなくちゃ気が済まないのだ。
職場は不穏な空気だった。公然のカップルだったあたしと行男が、イヴを境に険悪な雰囲気になり、顔も合わせようとしないのだ。喧嘩したのが一目瞭然の現状では、周囲も肩身が狭くなるだろう。申しわけない。
環境の改善のためにも、今は眼前の問題を片づけなくては。
同じ職場の先輩を探すのに苦労はしない。全体を見渡すと、すぐに彼女を視界に捉えることができた。
行男のデスクだ。不敵にも、その女――さな絵は彼とすこぶる近距離で会話をしている。ねぇ、ちょっと離れなさいよ。
聞き耳を立て、その内容を窺う。
さな絵の嘔吐を誘うほどの猫撫で声。今回の事情がなくとも、好きにはなれそうにない。
どうやら彼女から一方的に絡み、行男を居酒屋にでも連れ込もうとしているらしい。行男は相手にもしないだろうが、それでも隣に座り、言葉を交わしていることには嫉妬心が滾る。
やはり彼女とは決着を着けねばなるまい。
「さな絵先輩」
愛想笑いで上手くかわす行男に誘いを断念したさな絵の肩を強引に掴み、女子トイレへと連れ歩く。彼女は抗議もせずにおとなしく従った。
他人の気配はない。あたしは意を決して話を切り出した。
「あれ、先輩の仕業ですよね」
攻撃的、すなわち挑発的な口調で、笑顔を絶やさない彼女に臨む。
「なんのことかしら、美佳ちゃん? さっぱりわからないわ」
「とぼけないで」
なんと白々しい。悠長に三文芝居につきあうほど暇ではないのだ、壁際に彼女の背中を叩きつけ、気迫を込めた眼光をさらに研ぎ澄ます。
幸せの絶頂であったはずのイヴを瓦解させた、第三者から投じられた一石。あたしのそれと完全に同一のプレゼント。
偶然の一致であるはずがない。なにせ彼女は――恐らくあたしが入社し、彼と知り合う以前から――行男に想いを寄せていたのだから。傍目にも、未練を断ち切っているとは到底思えない。証拠に彼女は当時からしょっちゅうあたしに嫌がらせを仕掛けてきていた。あたしと行男が交際を始めてから、攻撃は余計に勢いを増した。
もう我慢ならない。さな絵は相応の罰を受けるべきなのだ。
しかしあたしの双眸とタイル壁に板挟みにされたさな絵は、遂に飄々とした微笑を拭い去り、悪魔の本性を晒け出した。唇が異様に吊り上がる。
「だったら、なに?」
氷雨のように突き刺さる、その冷徹で凶暴な言葉。
その迫力に一瞬だけ怯んだ隙を、彼女は見逃さなかった。
「あたしのせいで喧嘩したとでもケチをつけたいの? 笑わせないで。そんなの、ただの責任転嫁じゃない。横槍云々なんて関係ない、仲直りできない喧嘩をするくらいなら、それまでの間柄ってだけよ。それとも、他人に罪を被せれば解決するっての? くだらない」
逆に身体を押され、あたしの肩が激しく壁と激突する。
反論できなかった理由に、気圧されたという要因は確かにある。
しかしそれ以上に、彼女の台詞はあたしの胸の奥底を的確に抉ったのだ。
間違いなく、今のあたしは敗者だった。
悔しいが、さな絵の言葉は事実だ。
大晦日の寝室で、あたしはベッドに蹲って押し寄せる自己嫌悪と戦っていた。
本来だったらさな絵に責任を問い、賠償を求めている場合などではなかった。その間にも行男との手打ちの方法を模索しているべきだったのだ。
それなのに八つ当たりにも似た意趣晴らしを決行したのは、つまりあたしが罪悪感から逃れようと躍起になっていたから。
仲違いは、どこまでいっても結局は本人同士の問題だというのに。
「……よし」
あたしは拳を固め、行男に謝罪しようと英断した。
癇癪を起こしたあたしにも、大きな責任はある。今日まで行男からの接触もなかったのだから、彼も憤怒しているのだろう。
許してくれるかは、わからない。
けれど、顔も合わせず、互いの存在を無視したまま平行線で、いつしか恋人だった記憶ごと自然消滅してしまうなんて結末は、死んでも嫌だった。
脳内で慎重にシミュレーションを行う。最善は開口一番に頭を下げてしまうことだ。詳しくあのときの状況を回想する暇など断じて与えてはいけない。
ドアノブに震える手を添える。
そして、唇を引き結び寝室の扉を開いた。
「「……あ」」
瞬間、交錯する視線と視線。
扉のすぐ後ろに行男が立っていたのだ。
彼の顔が、両頬を基点にしてトマトのようにみるみる赤く熟していく。きっと、あたしの顔もそうなのだろう。
でも、駄目だ。ここで沈黙に身を任せているだけでは、なにも発展しない。
「えっと……あのときはごめんね……?」
「いや、俺の方こそ……」
ほんの小声で囁くように謝ると、ことのほか行男は狼狽して謝罪を返した。
『あのとき』がいつか明言してはいないが、彼には正確に伝わったようだ。当然か、あの騒動のせいで対面すら久しぶりなのだから。
会話に詰まる。行男といて空気がこんなに膠着したのは初めてだ。
果たして世界の時間が停止したかのような不気味な静寂を、先に突き崩したのは行男だった。
彼はおもむろに冷蔵庫へ駆け寄り、中からなにかを取り出す。
――こ、これは……
「なあ、いっしょにこれ食おうぜ」
満面の笑顔を向けているのは、行男なりに懸命に場の雰囲気を和ませようとした結果なのだろうか。
最悪だ。
彼が右手で掲げたのは、まだ未開封の包装。
さな絵からのクリスマスプレゼントだった。
意図せず瞳が軽蔑の色を帯びる。
「あ……」
あたしの反応に、行男もやっと自身の甚大な失敗に気づいたらしい、慌ててそれをまた冷蔵庫にしまうが、もう遅い。
性懲りもなく! と拳を振り上げた刹那、しかしあたしの動きは硬直した。
止めたのは、自らへの失望。
――あたし、仲直りしようって決めたばかりなのに……
唖然とする行男の顔を正視していると、自身の短気にますます嫌気が差す。
気づけばあたしは、アパートを逃げ出していた。
疾駆するあたしの視界の隅で、瞬く星々が幾条もの光線となって追走している。
そんな夜空を彩る満天の輝きからも逃げたくて、あたしはさらに速度を上げた。
また、やってしまった。
直接的に暴力に訴えなくとも、逃走すれば機嫌を損ねたという点では同じだ。きっと行男もまたあたしの気分を害したと感じるのだろう。
『仲直りできない喧嘩をするくらいなら、それまでの間柄ってだけよ』
さな絵の辛辣な悪態が脳裏に蘇る。
形容できない恐怖が首を絞め、胸を潰す。
本当は、恋仲になってからずっと危惧していたことだった。
幾度となく喧嘩を繰り返して――大方は行男の言動にあたしが激昂、あるいは逆上して――、それが既に修正の効かない、いわば運命にも近い予定調和なのだとすれば、
恋人に、まして伴侶になろうなど、到底甘い見通しだったのではないか……
そのとき、
「っ!」
あたしの腕を力強く掴んだ者がいた。
振り向けば、行男が数多の白い吐息を中空へ浮かべ、肩を上下させていた。
真剣な眼差しが痛い。
「……離して」
「駄目だ」
目線を逸らした弱々しい、けれど精一杯の抵抗を、彼は一息に斬り捨てる。
そもそも、あたしは元陸上部だったから体力にはそれなりの自信があったし、馬力で行男に負けるなんてもっと考えられない(学生時代の行男は万年帰宅部だった)。
でありながら、現実にはこうして冬の星空の下、手と手で繋がっている。
つまり、あたしは密かになにかを期待していたのかもしれない。
具体的なことはわからない。けれど現在進行形で愛情を蝕む、この懸念を打ち砕く“なにか”を。
しかし続けられた行男の台詞は、傷心のあたしにはいささか手荒が過ぎた。
「子どもみたいな真似しやがって……。だいたい家出したってどこへ行くつもりだよ。こんな時期ならなおさら、凍え死んじまうぞ」
平生ならば、素直じゃないな、とか笑いながら、心配してくれているのだと察してあげられたかもしれない。でも今、あたしの心は仰天するほど狭量だった。抱いた感想はたったひと言。
――一筋の希望も、見当違いだったのか。
「そんなの行男には関係ない」
口を衝いて出た薄氷のような言葉に、あたし自身驚いた。
けれどこれでいいのだ。もう行男との恋人関係は持続できない。修復不可な段階まで悪化したのではない。さな絵の言う通り、最初からそれまでの間柄だったのだ。
だから、あたしは――
「どうしようとあたしの勝手でしょ。泊まるところなんて腐るほどあるし、あたしが出ていけば行男も家の寝室が自由に使えて万々歳じゃない」
酷くはしたない隠喩を込めた台詞。もちろん、仮にも想い人の面前で発言することではない。それでもあたしに躊躇はなかった。
せめて未練など微塵も残さぬよう、徹底的に最悪の離別を演出しようじゃないか。
そう決心した矢先、けれど行男の返事はそんなあたしの中で滞留する暗鬱な黒雲を、豪快に振り払った。
「そんなの絶対に許さない!」
咆哮する行男は、見方によっては甚だ乱暴な手つきであたしの肩を鷲掴むが、不思議と不快な感情は生まれない。
痛覚よりも先に届いた彼の体温が、なぜか無性に嬉しくて。
対面するあたしの顔に唾液を飛ばす勢いで、行男は叫び続ける。
「おまえを愛してるんだよ! どれだけ喧嘩したっておまえが好きなんだ、ほかの野郎になんて渡すもんか!」
「――!」
普段は温厚な彼が、まるで激怒するような声音で告げる口上に、ようやく気づいた。
酷い喧嘩をするなら、それまで?
違う。そんな意見、玉虫色の内、ほんの一種類の解釈に過ぎない。
いくら仲違いしようと、虫唾が走るほど相手に嫌悪感が湧こうと、その都度お互いに「ごめんね」って謝れば、それだけでいいのだ。
ちょっとしたすれ違い、考え方の相違、当然だ。
ふたり異なるから、惹かれ合った。
ぎゅっと抱擁される。拒絶はしない。する理由がない。
触れる肉体を通して流入する熱は、愛情。
その気持ち、受け取るだけじゃ駄目だ、あたしもお返ししないと。
一瞬だけ迷い、直後にまぶたを閉じ、唇を突き出す。
途端、ハグとは比較にならないほど膨大な熱さが、口腔から往来した。燃える激情が混じり合う。
夜更けの、その上住宅が密集する団地の真ん中で愛を確かめ合う行為に、しかし羞恥はなかった。
むしろ誰もが見るがいい。部外者も、上司も、――さな絵も。
この愛は不滅だ。
帰路に就き、ふたりのアパートと平穏な日常にただいま。
適当に蕎麦を茹で、コタツを囲む。去年と変化ない年末の風景。
ひとつ違うといえば、そう――
あたしは室内にも関わらず、手袋をはめていた。
帰宅して真っ先にあたしがした行動はそれだった。箸が握りにくいが、仕方あるまい。
寒いのかと問われると、そうでもない。これにはもっと特別な意味があるのだ。
行男がじっとあたしの手を見つめている。
あたしはそれに気づかないフリ。
窺っているのだ、あたしの左手の薬指が裸になる瞬間を。
そして、直接渡してくれるのだろう。もらう機会を失った、彼からのクリスマスプレゼント。
幸せな未来を誓う贈りもの。
「ねえ、そういえばまだ行男からクリスマスプレゼントもらってないんだけど」
さほど興味ない風を装って、テレビを眺めながら、さりげなく尋ねてみる。
「あ? 時期も外れちゃったし、また今度渡せばいいだろ」
「えぇー」
そっけなく答えながら、視線はあたしの左手から離れない。横目にも焦れているのが丸わかりだ。やはり行男はそのときを待っている。
決めた。
新年の抱負。喧嘩して離れていた分、行男ともっとイチャつく。
カチリ、と。壁掛け時計が午前零時を指し示す。テレビ画面の向こうが途端騒ぎ出す。
あけましておめでとう。
あたしは満を持して手袋を外した。
「手、出せよ」
すかさず食い気味に要求する行男。どうやら、まだ秘匿情報のつもりらしい、背中になにか――確実に指輪を――隠している。
淑女らしく黙って左手を差し出すが、口を噤んでも相貌の緩みはどうしようもない。ニヤついたまま行男とばっちり目が合って、彼は狼狽して恥ずかしそうに顔ごと瞳を逸らした。
けれど仕事は慎重だ。丁寧にあたしの手首を掴み、薬指にそれをはめてくれた。
「プレゼント」
見惚れるほど綺麗な、婚約指輪だった。
「ねえ」
緊張と感動に震えながら、それでも余裕な表情の仮面をかぶって、訊いてみる。
たぶん、悪戯っ子の瞳をしながら。
「クリスマスプレゼントって、なんなの?」
「は?」
頓狂な声でそれに応じる行男。当惑しているのか、音もなく口をパクパクと上下させ、やがて、
「指輪だよ、だから」
これ以上ないくらい対応に困っているらしい容貌で言った。とてもかわいらしい、とても愛おしい反応。
でも、残念ながら不合格だ。
「本当にそれだけ?」
重ねて問いかけると、行男はしばらく怪訝な顔で首を傾げていたが、やっとその台詞が示す真意に気づき、
「……俺だよ」
顔中を薔薇色に染め上げ、ぼそりと呟いた。
「ああもう、行男ってば!」
自分で言わせておきながら、あたしも身体がみるみる熱くなるのを感じた。頭に血が上り、今にも噴火しそうだ。
それをごまかしたくて、行男に飛びつき両手を彼の背中に絡めて押し倒した。
暴れる行男を強引に押さえつけ、その耳元に熱っぽい吐息で囁く。
「――大好きだよ。ずっと、ずっと」
読んで頂きありがとうございます!
喧嘩の玉虫色の解釈なんて、それこそ人間関係の数だけ存在しているものですよね。重要なのはきっと、そこから自分なりの正解の道を歩むことなのでしょう。
それにしてもイチャイチャしやがって。くそう。
拙作にて、当シリーズ〈ある社会人の冬〉は大団円でございます。皆様の心の片隅にでも、行男たちが微笑んでくれていたのならば、それこそが私にとって至上の喜びです。