表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

初恋


 小比賀は、講義にも出ずに朝から下宿で本を読みふけっているようなヤツだった。

 ニーチェや三島由紀夫に量子力学概論から少年サンデーまで、手当たり次第といった感じだった。

 大学から近かったので、部活の練習を終えたあと、僕はよくそいつの下宿に立ち寄った。

 そして、とりとめもない読書の邪魔をしてはサイホンでいれたコーヒーをご馳走になった。

 本の山と机替りのコタツしかない四畳半で、サイホンコーヒーだけがヤツの唯一の贅沢であり、僕もそれが目当ての振りをしていた。

 それでも、さほど迷惑そうな顔もせず、小比賀は黙ってコーヒーをいれてくれた。

 もともと無口なやつで、あまり話をした覚えもない。

 コーヒーを飲みながら二人でぼんやりテレビを見ていることが多かった。

 その四畳半では、なぜかほっと心がなごんだ。

 何かと騒々しくて浮ついた大学生活で、そこだけが合コンやマージャンや学園祭とも無縁の、静かな別次元空間であったからかもしれない。

 もちろん、女っけはまるでなかった。

 もともと女や恋愛などとは無縁のヤツだと思っていた。

 だから、あれがヤツにとっての初恋だったに違いない。

 ただ、普通のそれと違っていたのは、相手が数千キロ離れた地球の裏側の女性だったこと。

 しかも、彼女はその時、生きてすらいなかった。

 小比賀がリタに出会ったのが、あの四畳半のブラウン管を通してだったとすると、僕は寄寓にも、その前代未聞の一目惚れの瞬間を目撃していたことになる。

 しかし、ヤツはそんな様子はおくびにも出さなかった。

 その翌日、ヤツは四畳半から姿を消した。

 そして、その五日後にはシチリアのパレルモ市で血塗れの死体になっていた。


 外電のTVニュースでヤツの名が読み上げられた時も、画面の中で警官に運ばれている死体が、あの小比賀だとはとても思えなかった。

 ほんの1週間前に、ブラウン管のこちら側で一緒にコタツに寝そべっていた友人が、今度はブラウン管の向こう側でビニール袋に包まった物言わぬ肉塊となっていた。

 その後の報道は、なおいっそう信じがたいものだった。

 あの無口でおとなしい小比賀が、地球の裏側で、まさかそんな凄惨な事件を引き起こしていようとは・・・

 それが真実なら、犠牲者はむしろ、あの悪名高いシシリアマフィアの方だったかもしれない。

 ヤツは、近距離からショットガンで蜂の巣にされる前に、マフィアの大物二人を血祭りにあげていたからだ。

 観光客を装った日本の"サムライ"に現役の市長と、町の顔役を惨殺されたシチリア北岸のパレルモ市は、まさに蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。

 その前日、市庁舎の前で車を降りた市長が何者かにレンガで頭を叩き割られた時、地元警察はファミリーの派閥抗争の再燃を恐れた。アッカルド市長はパレルモ市を牛耳っているアトリア・ファミリーの影の実力者でもあったからだ。

 だから、ファミリーのドン、サンバレロ・ビンセントを行き付けの酒場で待ち伏せて、背後からアイスピックで延髄を一突きにした覆面男が日本人だと分かった時、警察もマフィアも、いったいここで何が起こったのか計りかねたに違いない。

 そう。

 パレルモ南部の"ゴッドファーザー"の故郷コルレオーネ村に毎年群れをなして押しかけて来るおめでたい日本人観光客など珍しくもないが、地元警察ですら迂闊には手を出せないマフィアの幹部を無造作に始末したのが一介の日本人学生だったなどと、いったい誰が信じることができただろう。

 しかもその動機が初恋だったなどと・・・

 

 しかし小比賀はシチリアに降り立ったその日、パレルモ市郊外のカトリック墓地に足を運んでいた。

 案内したタクシー運転手の話では、ヤツは一つの墓の前で一時間ほどもわんわん泣き続けていたという。

 それが、あのリタだった。

 小比賀の初恋の相手、リタ・カマレルロの墓であった。

 

 リタは、シシリアマフィアの家庭に育ち、実の父と兄をファミリーの派閥抗争で惨殺された。

 そして十六歳の時、彼女の言うところの"世界を変えられるという幻想"から警察に密告を始め、それまでの凄惨な抗争事件の内幕や麻薬密売等の闇のビジネスの実態を暴露していった。その結果、次々とファミリーの実力者が逮捕されていったが、正義と真実のみを味方に、マフィアの沈黙の掟に背いて姉や母にすら見放された"裏切り者"の運命は既に定まっていた。

 彼女は日記の中でこう語っている。


  " 死は怖くない


  でも、このまま誰にも愛されなかったら幸せにはなれない "


 そして、彼女を保護していた反マフィアのボルセリーノ判事が、パレルモの路上で五人の護衛もろとも爆殺された七日後、リタもローマの隠れ家のアパートで自ら命を断った。

 そんな彼女の遺品である日記を元に、イギリスBBCが1993年に製作したドキュメンタリー。

 それこそが、あの日ヤツと四畳半で見た深夜番組であり、小比賀とリタの一方的で運命的な出会いだった。

 ヤツは一瞬のうちにリタに恋した。

 そして現実に彼女の墓を目の当りにして、最愛の恋人を裏切り者としての孤独な死に追いやった強大な悪に復讐を誓った。

 言葉を交わしたことすらない、既に墓の下に眠る少女のために・・・

 ・・・そうとしか思えないし、他に説明のしようがない。

 いや、恋などとういありきたりの言葉で説明しようというのが、そもそも間違いなのかもしれない。

 そもそも人は、これほどまでに感じ得るものなのだろうか。

 これほどまでに一人の人間を想い込めるものなのだろうか。

 しかも、少なくともこの世では、どうあがいても遂げようもない想い。

 恋愛というものが相手の痛みをそのままに感じ取る感情移入、あるいは一種の妄想だとしても、そこに至るまでには少なからずの共通の時の流れが必要なのではないか。

 とりとめもないお喋り、共に過ごした思い出、お互いの肌のぬくもり・・・

 そんなじれったくも楽しいもろもろをヤツは一気に飛び越えて、そのままリタに重なってしまった。

 時間も距離も、死すらも飛び越えて。

 なんと凄絶なる感情移入・・・ 

 それは、あの四畳半で突如小比賀を襲い、そして遥かなる永遠の世界にヤツを連れ去ってしまった。

 リタの日記の最後に記された、遥かな星々の永遠の世界に。

 

  " 空には無数の星たち

 

  一つ一つが小さな秘密をかかえ長い旅をしている


  私のために旅してくれるのは、いちばん小さくて、いちばん輝いていて、いちばん遠くにある星


  それは、無限の彼方に向かう旅


  そこでいつか私は、その星を抱きしめる "


 

 僕はこの夏、シチリア行きを予定している。

 そして御両親から分けてもらった小比賀の遺骨を、リタの墓の隣りにそっと埋めてくるつもりだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ