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第7話 口元に見とれて

 理科室の机に並んだ、試験管やヨウ素液の入った小瓶。今日の授業は、唾液の消化機能を学ぶ実験だ。

 黒い実験台の向かい側には、陽奈ちゃんが座っている。

 ツインテールをきゅっと結び、神妙な顔つきで実験道具を見つめる彼女に、どうしても視線が吸い寄せられてしまう。

「それじゃあ、みんな。自分の唾液を試験管に入れてみてください」

 先生の声が教室に響いた。

 唾液を、入れる? つまり、今から陽奈ちゃんが人前で……。

 彼女は実にあっけらかんと、でんぷんの入った試験管を手に取って口を少し開いた。

(……あんな陽奈ちゃん、初めて見るな)

 普段は笑うときも凛としていて品があるのに、唾を垂らそうとする彼女の口元はどこか無防備で、子供っぽさと大人っぽさが入り混じったような、見慣れない表情を浮かべている。

 ツインテールが肩で揺れて、光を受けて柔らかくきらめいて。その瞬間、きらきらした液体が、試験管の中にぽとりと落ちた。

 僕は垂らすはずの唾を飲み込んでしまっていた。

(……もし陽奈ちゃんとキスしたら。あの唾液も、僕の口に……)

 そんな妄想が、頭の中を勝手に駆け巡った。

 慌てて首を振る。いやいやいや、授業中になに考えてんだ僕は。

 頬が熱くなるのをごまかすように、僕は自分の試験管を大げさにいじりはじめる。

 それでも、陽奈ちゃんが試験管に口を近づけたときの顔が、頭から離れなかった。


 放課後。

 昇降口で靴を履き替えていると、後ろから声がかかった。

「……あ、朋希くん。帰る?」

 振り向けば、少しはにかんだ笑顔の陽奈ちゃんがいた。授業中の理科室の光景がよみがえって、僕は一瞬言葉を詰まらせた。

「う、うん。一緒に行こうか」

 並んで歩き出すと、夕方の風が二人の間をすり抜けていく。さっきまでぎゅっと胸を締めつけていた緊張が、少しずつやわらいでいった。

 二人で下校するのにも少しは慣れてきたのだろうか。そんなことを考えているうちに、会話はいつしかさっきの実験の話題になっていた。

「……あんな顔、普段は見せないよね」

 陽奈ちゃんが苦笑いしながら言う。

「うん。でも、それがなんか……」

 だらしない顔、といえばそうなんだけど――うまい言葉が見つからず、僕は口ごもる。ただ、陽奈ちゃんのそれには、普段とは違う秘められた魅力を感じたのは確かだった。

「って、朋希くんも変な顔してたよ?」

「えっ? 僕!?」

「なんかね、ずっと固まってた。実験も手についてないみたいだったよ。どうしてだろうねー?」

 彼女はからかうように笑って、歩幅を合わせてくる。

 その明るさに救われるようで、でも心臓の鼓動はますます早くなっていた。


 やがて、会話が途切れた。

 何か話さなきゃと思った矢先、陽奈ちゃんが小さく息を吸い込んだ。

「ねえ……さっきの実験で思ったんだけど」

 振り向くと、彼女の頬は夕日に照らされて赤く染まっている。

「もし……もしキスしたら、唾液って混ざるのかな、って」

 時間が止まったようだった。

 まさか、彼女の口からそんな言葉が出るなんて。反射的に笑ってしまう。

「……実は僕も、同じこと考えてた」

 陽奈ちゃんの目がぱちりと見開かれ、そして照れたように揺れた。

 気づけば、彼女の顔がほんの少し近づいていて――僕も自然に歩幅をゆるめた。

 互いの吐息が混ざりそうな距離。風に揺れたツインテールが僕の肩にかすかに触れる。

 ――このまま顔を近づけたら。

 僕の唇と、陽奈ちゃんの唇が。

 ごくん、と喉が鳴った。

 彼女の瞳がゆっくりと閉じられる。

 あと少し。あとほんの少しで。

 ……と、そのとき。

 陽奈ちゃんがはっと目を開いた。

「……まあ、まだ先のことだよね!」

 くるりと前を向いて、歩き出してしまった。

 ツインテールが揺れて、夕日を反射して眩しく見える。

 その背中を見つめながら、胸がしゅんとしぼむのを感じた。あと一歩のところで届かなかった。

 でも同時に、さっきの言葉が耳に残る。

 ――まだ、先のこと。

 「まだ」というのは、「いつかは」ってことなのか。

 足取りは軽いのに、心臓はずっと熱く、熱く鳴り続けていた。

(いつか……本当に、陽奈ちゃんと)

 そんな淡い希望が、胸いっぱいに膨らんでいた。

次回は月曜の12時ごろに投稿予定です。

(月曜の昼・木曜の夜に更新)

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